08-05. カルヴィン伯爵
その姿を目にしたその瞬間、リヴィが剣を構えて先頭に立った。彼女はもう震えていない。
『人の進化に立ち会えて、実に幸運だな、君たちは』
そんなことを意にもかけず、老人が階段を降りてくる。それはまるで操り人形のようにぎこちない動きだった。この男がカルヴィン伯爵……なのか?
『王国のみならず、世界は戦乱に満ちる』
「やれやれだ。また規模が大きくなったものだ」
俺はウェラの頭を撫でながら言った。タナさんは短剣を抜いて右手でくるりくるりと回し始める。
『悪魔の子、そして、力ある魔女――君たちの力があれば、それはより早く完全になる』
「魔女は――引退したんだよ」
タナさんが舌打ちする。
「それに、あんたやエリザに協力するつもりはさらさらないね!」
『この不完全にして不安定な世界を、完璧な調和の上に。それがエリザ様の大望』
「だから?」
俺とタナさんの声が和音を創る。タナさんが畳み掛ける。
「そもそもさ、カルヴィン伯爵さん。エリザ自身が不完全じゃないか。悪魔の甘言に唆される程度にはねぇ」
『否――』
カルヴィン伯爵は足を止めて首を振る。
轟々と繰り返される旋律に、危うく意識を持っていかれそうになる。なるほど、そういう狙いでのオルゴールか。俺はようやくそれに気が付く。
『エリザ様は完全。あらゆる人間を導く力を持っていた。なれど、その力を脅威と感じた愚かなる教会によって陥れられ、断頭台へと送られた!』
「その教会と、今度は手を組もうって話だろう」
『彼らは悔い改めた。そしてエリザ様の使命を理解した』
使命、ねぇ。他人に向けて振りかざすような使命は、たいがいがろくなもんじゃない。
『ヴァルナティ様の子、エライアソン。君が我々に手を貸せば、完全世界は近い』
「冗談じゃねぇよ」
俺はゆっくりと近付いてくる老人に向けて吐き捨てる。
「俺は、いや、俺たちは、お前たちになど手を貸さない。絶対に、だ」
「そうさ、魔女になっちまった時点で、人の負け。その魔女がどんな理想を掲げようが、それは……悪魔の言葉さ」
噛みしめるようにタナさんは言った。
『君もまた大いなる魔女――』
「引退したっつってんだろ!」
タナさんはまた短剣をくるりと回した。
「カルヴィン伯爵。あんたに用事はないよ。今すぐエリザのところへ案内してくれるって言うなら、まだ猶予があるさね。アタシたちがお仕置きしてやりたいのは、あんたじゃない。エリザさね!」
『まだ理解できぬのか』
「理解はしたさ」
俺は前に出ようとしているタナさんを押しのける。
「理解した上で、承服できないと言っている。お前こそ理解しろ、完全なる世界など、世迷い言に過ぎない。そんなもの、悪魔の誘惑に過ぎないということをな!」
『愚かな……! ヴァルナティ様はなぜこのような――』
「知らねぇよ!」
俺は五歩の間合いに入って止まった老人に正対――しようとしたところでリヴィに突き飛ばされた。リヴィの剣が何かを弾く。それが人脂の蝋燭を何本か削り崩す。
「パパ、迂闊やで!」
「お、おぅ」
タナさんに助け起こされる俺。格好悪いったらない。カルヴィンを見るとその眼窩が青く燃えていた。眼球があるべき場所は、ぽっかりとした空洞だ。もはや――人間ではない。
ウェラがカードを空中に放る。
紅蓮の巨人が姿を見せる。
巨人が両手から炎を放つ。カルヴィンもその目から青い炎を放出する。
「精霊さん……っ!」
ウェラの悲鳴。信じられないことに、どう考えてもカルヴィンの火力の方が上だった。
「ウェラ、精霊を還せ!」
「う、うん!」
精霊がふわりと消える。カルヴィンの両目の炎が止まる。代わりにその背後に輝く球体が二つ浮かび上がる。
「なんやなんや!」
リヴィがまた何かを弾き返す。その何かは速すぎて、俺には見えない。
「パパ! こいつ、切り捨ててええんやな!? 手加減は無理や!」
「自分の無事だけを考えろ! 何したっていい!」
俺は痺れ始めた足を叱咤しながら怒鳴る。その頃にはリヴィはもうカルヴィンに切りかかっていた。飛んでくる何かを物ともせずに。頬に傷を作りながら。
「って、わっ! なんや!」
剣がカルヴィンに命中する直前に、何かで大きく弾かれた。リヴィは尻もちをついたが、すぐに跳ね起きる。ダメージは小さかったようだ。
「結界さね!」
タナさんはそう言うと、あろうことかカルヴィンに掴みかかった。左手で襟首を掴み、絞り上げた。右手には短剣があるが、中途半端な位置で固まっている。動けなくなっているのだと俺は理解する。
『なにをするか、無礼者!』
「あんたを! ぶちのめすんだよ!」
タナさんはドスの利いた声で怒鳴ると、カルヴィンを思い切り引き倒した。無様にうつ伏せに転がる老人に、ほんの一欠片の憐憫の情を抱かないではなかったが、それもすぐに消えた。
心が急速に冷めていくのを覚える。二十年前の、あの頃のように。
「パパ」
……今、ウェラが俺を呼ばなければ、危なかった。その小さな温かい手は、俺に体温を戻してくれる。そうだ、こんな所で正気を失っている場合ではない。
「大丈夫だ、ウェラ」
「うん」
大丈夫。俺は自分にもう一度言い聞かせ、倒れて呻いているカルヴィンに向けて言った。
「あんたは被害者の側だと俺は思っている。エリザに魅入られた不幸。それは確かにそうだ。だが、その結果、あんたは何をした。領民をいくら殺した」
『エライアソン殿下ともあろう方にそう言われるとは、恐悦至極の極み』
老人はニヤリと口角を吊り上げる。タナさんが俺とリヴィを思い切り後ろに引っ張る。俺はかろうじて尻もちは免れたが、剣は乾いた音を立てて床を転がった。
「!?」
「ちがう、エリさん! こいつ、エリザに魅入られたわけじゃない!」
タナさんが俺の剣を拾い上げる。
「こいつが、魔女だ!」
「どういうことだ、タナさん!」
――その答えは、すぐに出た。




