02-05. 汚れた手
カルヴィン伯爵を訪ねる旅は、なかなか進まない。原因は言うまでもなく、俺の腰だ。
三時間に一回はタナさんのマッサージを受けたり、湿布や灸を据えてもらったりしてようやく動けるという体たらくだったからだ。ああ、そうそう。タナさんの湿布は実に良いものだった。じわっと効いてくる感がたまらない。ウェラの火の精霊のおかげで、手軽にお灸という手段が使えるようになったのも大きかった。
生涯孤独を貫こうと思っていたのに、ウェラもタナさんも、いなくては困る人になってしまった。なんていうか、うーん? ちょっとだけ複雑な心持ちだ。
俺は右手で杖にした剣を持ち、左手をウェラに握られ、頑張って歩いているというわけだ。もはやおじいちゃんと孫である。早く馬車を入手しなくては。せめて駅馬車のある街に辿り着かなくては、文字通り野垂れ死ぬ。
俺たちは街道脇にあったいい感じの草地で野営の準備を始めていた。これ以上頑張ってもすぐ夜だ。ウェラもいるし、夜中の移動は控えておこうという判断をしたのだ。
俺はタナさんのマッサージを受けた後、今度はタナさんを寝かせて背中を揉んでいた。
「あぁぁぁ、いいねぇ」
タナさんが大きく息を吐いている。
「あんたの手首から先と結婚したいわ」
「そこだけ?」
「他に要るかい?」
「う、うー……」
刺さる刺さる。手首より上には用がないと言わんばかりの言説である。言い返せないわけじゃない、言い返さないだけだからな。
「パパ、ママ、火を点けていい?」
「あ、頼むよ、ウェラ。ありがとうな」
「えへへ」
ウェラははにかみつつ、集めてきた枯れ枝に向かって手のひらを向けた。するとすぐにぽわぽわと炎が上がり始める。
「ところでそういう小さな火の時には、精霊は代償を求めたりしないのか?」
「うん。火の精霊さんは一番のおともだちだからね」
「そんなもんなんだ」
「火の精霊さんは、ウェラが赤ちゃんの頃から守ってくれてるからねー」
なるほどね。そういう関係性なのか。
焚き火はすぐに大きくなり、暗くなり始めた空をゆらゆらと揺らし始める。俺はそこから視点をタナさんの背中に戻し、また揉み始めた。それにしても恐ろしく頑固な肩凝りだった。ぬるま湯に浸け置きしておきたいくらいだ。
「はああああ、エリさん。堪能したよ」
タナさんはゆっくりと起き上がると、軽く頭を振った。そして両肩をくるくると回す。……ゴキゴキいってますけど。
「ここはどのへんだろうな、タナさん」
「さぁねぇ。ただ、街道は確実に整備されてきているから、遠くないところに、あの町よりはマシな町があるはずさ。確かこの辺はべラルド子爵かハイネル男爵の領地だったね」
「微妙なところだな」
俺はそう言って、焚き火の方を見た。すると、その近くで、ウェラが眠っていた。
「あらら」
俺はその無防備な寝顔を見て、タナさんと顔を見合わせる。タナさんはその表情を和らげていた。とても優しい顔だった。タナさんは荷物から薄手の毛布を取り出すと、ウェラの身体にかけてやる。未だ初夏であるから、夜は少しだけ冷える。
「久しぶりなんだろうねぇ」
「うん?」
「油断していい時間がさ」
「俺たち信頼されてるってこと?」
「かもしれないけど、今のあの子にはアタシたちじゃ勝てないさ、そもそも」
確かに、あの火の精霊を使役できるのだ。やる気になれば、俺たちなんて一瞬で火葬されてしまうだろう。
「でもさ、エリさん」
「うん?」
「信頼されてるって思いたいね」
「そう、だな」
この俺が、この子の安心できる場所を作れるというのなら――悪くはないと思う。
「さて、エリさん。ちょっと寝ておくといいさ。痛みが引いてるうちにね」
「え、でも、タナさんだって疲れてるだろう?」
「なに、あんたよりマシさね。それに、アタシは夜のほうが得意なんだ」
タナさんの横顔が焚き火の炎でゆらゆらと影を作っている。
「魔女、だからなのかねぇ」
「引退したんだろ?」
「まぁ、ね」
タナさんの声に張りがない。俺は横になって、タナさんの顔を見上げる。
「なんだい、エリさん。膝枕でもしようか?」
「……魅力的な提案だけど、まだ遠慮しておくよ」
「あんたは……いい男さね」
タナさんはふっと息を吐く。それに合わせてパキッと炎が爆ぜる。
「俺は大した人間じゃないさ」
「もし仮に。その手が罪にまみれていたとしても――」
タナさんは静かに言った。
「アタシにとっては今そこにいるエリさんが、エリさんなのさ。だから」
だから……。
「自分の過去にひっぱられちゃいけないよ、エリさん。今の自分を貶めようとする過去は、過去なんかじゃない。ただの悪意なのさ。自分で自分を傷つける、悪意の一つの形なんだ。過去は、過去さ。現在の自分を構成するためだけのもの。どんな酷い過去であったとしても、どんな罪に汚れていようとね、その積み重ねがあんたという人そのものなんだ」
「タナさん……」
「他人からの許しは大切かもしれない。けど、何より大切なのは、自分で自分の過去に向き合ってやることさ」
「もし――俺が」
俺はタナさんの横顔を凝視する。この元魔女はどこまで知っているのか。
「いいのさ、エリさん」
タナさんは俺を見てニッと笑った。荒んだ笑みではあったが、悪意は感じなかった。
「今のアタシには、あんたが必要なのさ。それでいいじゃないか」
「タナさん……」
「ま、手首から先だけでいいけれどね」
……俺は自分の両手を見た。それはとても汚れた手だった。
「さ、この調子でお喋りしてたら、朝になっちまうよ。まずは寝ておくれ、エリさん」
「ああ……そうだな」
俺はそう答えると、突然襲ってきた耐えがたい睡魔にあっさりと敗北した。意識が遠くなる中、柔らかな歌声が聞こえてきた気がした。




