04-02. 魔女になる
タナさんはその黒い宝石のような目を見開いた。
「エリさん……」
本当に――タナさんは小さく首を振る。
「ここまで汚れたアタシでも、いいのかい?」
タナさんは時々言葉を詰まらせながら言った。
「汚しに汚され尽くしたアタシでも、エリさんはそばにいてくれるかい?」
「それはタナさんの罪じゃない。タナさんの負うべき咎でもない。だろ?」
俺は首を振る。タナさんの震えが大きくなった。それでも涙は溢れない。唇が大きく震えている。
「幸いなことにさ、アタシは赤ちゃんができなかった。でも、だから、アタシはずっと、都合の良い道具として犯され続けた。アタシの身体、汚れてないところなんて一つもないんだ。汚穢に塗れた、何の力もない、ただの道具だったんだ」
俺はタナさんの両手を強く握った。タナさんも握り返してくる。その力強さに、俺はタナさんという人間の本質を知る。
「母さんの木片、もう影も形ものこっちゃいないけど、そこにはたぶん『生きて』と書いてあったんだと思う」
タナさんは目を開けて自分の頬を拭った。その頬は濡れていた。だが、それはタナさんのものじゃなかった。
「お、俺……?」
そんなバカな。俺は慌てて自分の両目をこすった。ぼやけていた視界が急速にクリアになる。
「あんた、アタシのために泣いてるのかい……?」
「泣いてない」
俺は首を振った。タナさんはほんの少しだけ口角を上げて言う。
「そういうことにしておこうかねぇ?」
タナさんはそう言ってくれたが、俺は自分のその行為が信じられなかった。涙なんて、気付いた時にはもう流していなかった。三十年ぶりくらいに落涙したのかもしれない。
「でもアタシ、男の涙なんて、初めて見たよ」
「面目ない……」
「とんでもないさ。嬉しいよ、エリさん、ありがとう」
タナさんは身を起こすと俺の頬に口付けた。そして俺の隣に座り直す。
「アタシはそれを見せられて恐慌状態に陥ったんだけど、何度も何度も殴られて黙らせられた。村から逃げるなんて実際問題不可能だった。道具は一箇所に押し込められていて、外には見張りが何人もいた。よしんばその小屋を逃げ出しても、村から逃げおおせるなんて不可能だった」
それからタナさんはずっと逃げること、生きることだけを考えて、男たちの道具としての日々を過ごしていたのだという。
「ある時、アタシは声を聞いたのさ。今すぐここから出してやる代わりに、女を十人殺せって」
「それが……悪魔の?」
「そういうこと」
タナさんは俺の肩に頭を乗せた。俺は胸の奥が鈍く痛み始めているのを知覚する。
「アタシは……アタシの部屋にいた女全員をね、殺したんだ。一人一人、順番に殺して回った。だけど、みんな抵抗しなかった。誰も、もがかなかった。みんな静かに死んでいった……!」
タナさんはついに激しく嗚咽した。両目からポロポロと涙が溢れてきていた。そんなタナさんを、俺は力いっぱい抱きしめる。この時にそれ以上何かができたのか。俺にはわからない。震えるタナさんを受けとめる以外に、何ができただろう。
「みんな、自分の順番になったら、『ありがとう』って言ったんだ。アタシは、ただ一思いに縊り殺すことしかできなかった。自分だけが助かろうっていう浅ましささね……」
「タナさん、俺の思いは最後に言うから。タナさんは今、言いたいことを全部吐き出せ。遠慮はいらない」
「でも、エリさん」
「俺、タナさんより年上なんだぜ? たまには年上の力を見せてやりたいんだよ」
「……わかった」
タナさんはそう言ったが、しばらくは沈黙していた。馬車の弾き出す諸々の音だけが、俺たちの間に流れていく。
タナさんは今までずっと一人でその思いを抱えていたのか。そう思うと、俺の胸は張り裂けそうになる。タナさんの強さの裏にあるもの。タナさんを支えるもの。そして、苛むもの――過去。
「女たちを皆殺しにしたあとに、いつものように男が入ってきた。そこから先は正直に言うけど、よく覚えてない。はたと気付いたら、男は喉を掻き切られて死んでいたという話。……このナイフでね」
それはタナさん愛用のナイフだった。
「でもそこまでだった。小屋は一瞬で包囲され、アタシは魔女だと言われた。まぁ、そうだったんだけど。でも、火を放たれそうになった瞬間に、アタシの中の悪魔はまた言ったんだ。村を全て代償として捧げるのであれば、お前は自由の身になるぞとね」
「その前に何人も殺させているじゃないか」
「悪魔はしれっと言ったよ。それは小屋から出してやるための代償だって。この村から逃げたいなら、村を皆殺しにすればいい。お前をこんな境遇に陥らせ、救おうともしなかった村の連中を殺すのに、何を躊躇するのかってね」
「とんでもない話だな」
何という強欲さか。俺の胸の奥が今度は熱を持ってくる。タナさんは静かに息を吐く。
「でもね、その言葉はアタシの言葉でもあったのさ。気付けば村は……ご丁寧にも少し離れた里山の麓にあった家に至るまで、しっかり燃えていた。赤子から老人まで。男も、女も。みんな灰になるまで焼けちまった。その時さね、アタシが本当に魔女になっちまったのは。本物の魔女にね」
「仕方ないじゃないか。そんなの、あたりまえじゃないか……!」
俺は思わずそう応じていた。タナさんは「ふふ」と小さく笑う。
「そうするしかなかったって、今でも思ってる。正しいか正しくないか。間違いか、そうじゃなかったか。それはわからない。でも、それしかなかったんだ。でもね、たとえそれがどうであっても、胸は痛む。罪に痛むのさ。罪もない赤ん坊まで皆殺しにしちまったんだから。生きたい――そのエゴに従って、アタシは百人も二百人も焼き殺したんだから」
「それは罪なんだろうか」
俺はタナさんの肩を抱きながら呟いた。タナさんは「罪だよ」と答える。
「アタシが、最初にアタシに殺された子たちの立場だったら、みっともなく抵抗していたと思う。だって、アタシは……アタシは、生きたかったんだ。どんな代償を払うことになるとしても、なんとしても生きたいと思っちまったんだ。母さんの木片のあの言葉が――その時のアタシには読めなかったけれど――アタシをこの世に縛り付けようとして、だから、アタシは未練がましくしがみついた」
タナさんは子どものようにしゃくりあげる。俺はその頭を撫でてやる。
「タナさん、そいつこそが、運命ってやつじゃないかなぁ」
「アタシが人殺しをして魔女になったことが、運命なのかい?」
「それもこれもひっくるめて」
俺はタナさんの髪をまた撫でた。
「俺にとって大事なのは、今ここにタナさんがいること。スリールヴァルタナという一人の人間がここで生きていることなんだ。過去がどうだって関係ないとは言わない。もし、その過去が重いというなら、半分くらいは俺が背負ってやる。タナさんは、そういうことを含めて、過去のその全てを含めて、今のタナさんなんだ。どの過去が欠けても、今のタナさんにはならないんだ」
「全肯定……してくれるのかい?」
「あたりまえだ」
俺はタナさんの右手を取った。華奢で繊細な手だ。
「都合のいいところだけを好きになれるほど、俺は器用じゃないんだ」
「エリさん、あんた……ノロケでアタシを殺す気かい?」
タナさんは俺を見ていた。俺は苦笑する。
「アタシは村一つ皆殺しにした人非人さね。その過去を知っても、そんな事を――」
「俺を見くびるなよ、タナさん」
俺はタナさんの手を軽く握って離した。
「俺だって、タナさんには惚れてる。……もしかしたら、だけど、愛してるのかもしれない。この気持ちが愛だというのなら、そうなんだろうね。だからさ、タナさん。タナさんのその過去が罪だっていうなら、その過去を含めて全部、タナさんの全てを愛するって決めた俺がいるのならね、その過去も半分は俺のものだ。イヤとは言わせないぞ、タナさん」
「エリさん、でもそんな」
「タナさん――いや、スリールヴァルタナ」
「なんか、本名は……くすぐったいねぇ……」
「人の顔と名前を覚えるのは得意でね」
俺は言う。俺の厄介な生い立ちもたまには役に立つ。
「カルヴィン伯爵に会う。魔女狩りを何とかする。ついでにエリザ女公爵とやらも黙らせる。そしたらさ」
「それって、ずいぶん高いハードルじゃないのさ、エリさん」
タナさんが、ようやくいつもの表情に戻った。そして小さく唇を動かす。
「それで……?」
「俺とさ、どこかに腰を落ち着けないか?」
「それは、アタシにあんたの罪も背負えって言っている?」
「お見通しかよ」
「アタシには悪魔が憑いてるからねぇ」
微笑むタナさん。それは、この世のものとは思えないほどの美しい顔だった。
「でも、アタシが先にあんたに惚れたのさ。あんたの罪咎の凄まじさは、初対面のときにわかったよ」
「そうと分かっていて、どうして……?」
「似た者同士だから、かねぇ?」
タナさんはそう言うと、俺の唇に唇を重ねてきた。俺は一瞬ウェラとリヴィを伺ったが、二人はしっかりと眠っている――ように見えた。
「タナさん……」
「好きさ、エリさん。逃さないよ?」
「逃げると思うかい」
「無理、だろうね。腰も悪いし」
「そうじゃないだろ」
俺は笑った。そして今度は俺からタナさんの唇を奪いに行く。タナさんは俺を受け止めながら、クックッと笑っている。
「あんた、顔以外は本当にいい男さねぇ」
「そりゃ余計な一言だよ、タナさん」
俺はタナさんの背中を強く抱きしめた。嫋やかな背中だった。




