幻砂迷宮 ― 第二層:影を喰らう砂
第一層を抜けた先には、広大な地下空間が広がっていた。
天井は見えず、どこまでも砂の海が続いている。だがその砂は――黒。
闇に沈むように蠢き、ぼこぼこと泡立つたびに、不気味な低音が響いた。
「……これが、“影を喰らう砂”」
セレスが低く呟く。
「光あるものを呑み込み、存在を削り取る。触れれば、影ごと消えるだろう」
「影ごと……?」
僕は青い瞳を揺らし、思わず裾をぎゅっと握った。
――存在を削る。まるで、自分が“いなかったこと”になるような恐怖。
「へっ、脅しは効かねぇよ!」
ドランが豪快に笑い、松明を放り投げた。
炎は黒い砂に触れた瞬間、ふっと掻き消え、煙ひとつ残さず消滅した。
「ひぃっ!?」
僕の声が裏返り、細い肩が震える。
「い、今……炎そのものが……!」
「なるほどね。これは厄介だわ」
リィナが剣を抜き、鋭い瞳で周囲を見渡す。
「踏み込むだけで命懸けってこと」
フィオナは手を合わせ、小さく祈りの光を生み出す。
けれど光球が砂に触れた瞬間、影ごと吸い込まれ、跡形もなく消えた。
「……っ!? 私の魔法まで……」
『油断するな。ここでは影を守ることが命取りじゃ』
ブレードさんの声が低く響く。
『勇者ナギ……お主の影も狙われるぞ』
ぞくり、と背筋に冷気が走る。
足元の砂がざわりと揺れ、僕の影が勝手に伸び、黒い砂の中へ引きずり込まれそうになった。
「うわぁっ!?」
僕は悲鳴を上げ、裾を握ったまま後ずさる。
細い足首に、冷たい砂の手が絡みついたのだ。
「ナギ!」
リィナが剣を振り払い、黒い砂を斬り裂く。
その刹那、砂の中から無数の腕が伸び、一行全員の影に絡みつこうと襲いかかってきた。
「来るぞ! 構えろ!」
ドランが大剣を構え、砂の海に吠えた。
黒い砂は渦を巻き、ぐにゃりと人の形を作り始めた。
やがて現れたのは――僕たち自身。
「……えっ」
青い瞳が大きく揺れる。裾をぎゅっと握った手が震えた。
そこに立っていたのは、“もう一人の僕”だった。
細い肩、震える指、黒髪が頬に張りついた姿まで、寸分違わない。
けれどその顔は、冷たく歪んでいた。
「僕なんか……勇者じゃない」
「仲間を守れるはずがない」
影のナギが、低く呟く。
その声は僕自身の心の奥から響いてくるみたいで、胸が締め付けられた。
「……なに、これ……」
フィオナの前にも、影が立ち塞がった。
それは優しい微笑みを浮かべながら、しかし血に濡れた掌を見せつける。
「誰も救えない癒し手……それがお前の真実」
「うそ……!」
フィオナは目を見開き、後ずさった。
リィナの前には、冷笑を浮かべる“影のリィナ”が立つ。
「強がっても孤独なだけ。お前に勇者を導く資格なんてない」
「なっ……!?」
リィナは歯を食いしばるが、握る剣が小さく震えている。
ドランの前に現れた影は、巨躯を持つ“影の戦士”。
「力は無意味だ。守れなかった肉体は、ただの屍になる」
「うるせぇぇぇッ!!」
ドランは大剣を振り下ろし、影と激突した。
セレスは涼しい顔で影を見据えた。
「……私の影は皮肉しか言わないでしょうね」
その言葉通り、影のセレスは薄笑いを浮かべる。
「千年生きても何も救えなかった。お前は無意味な存在」
一瞬、セレスの瞳が揺らいだ。
『ナギ! 惑わされるな!』
ブレードさんの声が頭を貫く。
『奴らはお前たちの“恐れ”を具現化しただけ! 本物ではない!』
だけど、胸に突き刺さる言葉はあまりにも現実的で、僕は細い肩を震わせる。
(……これが、僕の恐怖……? 勇者でいる資格なんてないって……!)
その瞬間、影のナギが一歩踏み出し、聖剣そっくりの剣を構えた。
「偽りの勇者は消えるべきだ。本物は僕だ」
「そ、そんなの……!」
僕は必死に首を振るが、足が動かない。
仲間の影たちも同じように襲いかかろうとしていた。
黒い影が、一斉に動いた。
僕の分身は剣を振りかざし、リィナの影は嘲笑しながら切り込む。
フィオナの影は血に濡れた掌を広げ、ドランの影は巨体を揺らして大剣を振り下ろす。
「くっ……!」
僕は裾を握りしめ、細い肩を震わせる。
青い瞳に、自分の“弱さ”が迫ってくる。
「ナギ君、下がって!」
フィオナが両手を広げ、僕の影を押しとどめようとする。
けれど、その影は彼女自身を突き飛ばした。
「やめろぉぉぉっ!」
ドランが大剣を叩き込む。影のドランは同じ力で応じ、轟音が響き渡る。
砂煙の中で、二人の巨体がぶつかり合った。
「……はっ、同じ顔で好き勝手言わないで!」
リィナは影の自分に切り込む。
火花が散り、鋭い視線がぶつかり合う。
「弱いのは認める。でも私は――仲間を導く剣になる!」
影の剣が弾け飛び、黒い砂となって霧散した。
「ふん、影ごときに負けられるか!」
ドランも渾身の力で大剣を叩きつけ、影の巨体を真っ二つに割った。
「……私は、確かに何も救えなかった」
セレスが静かに告げる。影の彼女は冷笑を浮かべる。
「だが、今は違う。私は――この子らを導くと決めたのだ」
その言葉と共に放たれた魔力の光が、影のセレスを貫き、霧散させた。
「フィオナ!」
僕が声を上げると、彼女は涙を浮かべながら影の自分と向き合っていた。
「……そう、私は弱い。誰も救えない時だってあった」
彼女は震える声で告白し、それでも両手を広げた。
「それでも――今は違う。ナギ君も、みんなも……絶対に救う!」
祈りの光が迸り、影のフィオナを浄化していく。
残ったのは――僕自身の影だけ。
聖剣を構え、冷たく僕を見据えている。
「僕なんか……勇者じゃない」
「お前は仲間を裏切る」
「弱さしかないくせに、なぜ立つ?」
その言葉に、青い瞳が揺れる。
裾をぎゅっと握りしめ、足が震える。
(……そうだ。僕は弱い。震えてばかりで、勇者なんかじゃない……!)
けれど――仲間たちの声が背中を押した。
「ナギ! お前が前に出なきゃ、意味がねぇ!」(ドラン)
「アンタは勇者よ! 私たちと一緒に戦ってる!」(リィナ)
「ナギ君……私は信じてる。震えてても進める人だって」(フィオナ)
「決めるのは、お前自身だ」(セレス)
『ナギ! 影に勝つのは“勇者の心”じゃ!』
ブレードさんの声が鋼のように響いた。
僕は涙を拭い、震える細い腕で聖剣を掲げる。
「……勇者かどうかなんて、わからない! でも……仲間を守りたい僕は、本物だ!」
蒼光が剣先から溢れ、影の僕を貫いた。
断末魔のような声と共に、黒い砂は霧散し、迷宮の空気が一気に澄んでいった。
黒い砂の霧が消え、迷宮の回廊には静寂が訪れた。
息を荒くした僕たちは、その場に膝をつきながらも互いの顔を見合わせた。
「……勝ったのか?」
ドランが大剣を砂に突き立て、荒い息を吐く。
「ええ。少なくとも、影は払えたわね」
リィナが剣を下ろし、額の汗を拭う。その声には安堵が滲んでいた。
「よかった……ナギ君も……無事で」
フィオナが祈りの光を灯し、仲間たちの傷を癒す。彼女の微笑みは揺れていたけれど、確かな温もりを持っていた。
セレスは壁に手を当て、目を細める。
「……だが、これは序章にすぎん。影は“心の試練”だ。真の瘴気は、まだ奥に潜んでいる」
その言葉に、胸が締め付けられる。
裾を握る手に力がこもり、青い瞳が揺れた。
(……まだ終わりじゃない。僕たちを待っているのは――もっと大きな何か……)
『ナギ、震えるな。影を斬ったその心を忘れるな。進めば必ず答えは見つかる』
ブレードさんの声が、刀身を伝って胸に響いた。
僕は深く息を吸い込み、小さく頷いた。
「……うん。僕は進むよ」
その時だった。
――ゴゴゴゴゴ……ッ。
迷宮の奥から、地の底を揺るがすような低音が響いた。
砂の壁がひび割れ、黒紫の光が漏れ出す。
瘴気が濃くなり、冷気が肌を刺した。
「……目覚めるぞ」
セレスが呟く。
「次は……本物の魔物ってわけか」
ドランが唸り、大剣を構えた。
リィナは瞳を細め、鋭く前を見据える。
「影なんかより……ずっと手強そうね」
「ナギ君……」
フィオナが不安げに僕を見つめる。
僕は裾をぎゅっと握り、青い瞳を見開いた。
「……怖い。でも……みんなと一緒なら、戦える」
砂塵の奥から、巨きな気配が這い出してくる。
幻砂迷宮――第二の試練は、まだ幕を開けたばかりだった。




