幻砂迷宮 ― 第一層:鏡の回廊
迷宮の奥へ進むと、空気がいっそう冷え込んでいった。
松明の炎が揺れ、左右の壁一面に無数の鏡が並んでいる。
「……鏡の回廊か」
セレスが目を細め、指先で古代文字をなぞる。
「ここに映るのは姿だけじゃない。“心の影”を映す」
僕は思わず裾をぎゅっと握った。
青い瞳に映った自分の顔は、怯えて震えている。
……まるで、本当の僕を突きつけられるようで。
「おいおい、俺が映ってねぇぞ!?」
ドランが大声を上げる。
「鏡のほうが筋肉に耐えられなかったか!?」
「うるさいわよバカ!」
リィナがすかさずツッコむが、その表情も強張っていた。
ふと、フィオナの鏡像がゆらりと動いた。
……いや、違う。鏡の中の彼女が、現実の彼女とは別に、微笑んで手を差し伸べてきたのだ。
「……ナギ君。こっちへ来て。みんなを救えるのは、鏡の向こうだけだよ」
「なっ……!?」
僕の青い瞳が大きく揺れる。裾を握る手に力が入った。
甘く優しい声――けれど、その響きはどこか歪んでいた。
「気をつけろナギ! それは幻影だ!」
リィナが叫んで剣を構える。だが同時に、彼女の鏡像も飛び出し、炎を纏った剣を振り下ろしてきた。
「くっ……分断する気か!」
セレスが結界を展開するが、鏡像は次々と迷宮の外へと仲間を引きずり込もうとする。
『ナギ……試されているぞ。この回廊は“勇者姫の心を量る鏡”。逃げられん!』
ブレードさんの声が響き、刀身が青く光を帯びた。
「ぼ、僕が……この幻影を……!」
震える腕で聖剣を握り直し、僕は一歩前へ踏み出した。
鏡の奥から、もう一人の“僕”が歩み出てきた。
黒髪が頬に貼りつき、青い瞳は怯えで揺れている。
裾を握る指先まで――寸分違わぬ僕自身だった。
「……僕?」
声を漏らすと、幻影はかすかに笑った。
「そうだよ。僕は“本当のナギ”。勇者なんて呼ばれても、震えて逃げ出したいだけの弱虫だ」
胸が締め付けられる。
耳をふさぎたいのに、その声は僕の内側から響いてくるようだった。
「違う……! 僕は、仲間と……!」
「仲間?」
幻影は冷たい目で僕を見下ろした。
「彼らは強い。リィナは剣を振るい、ドランは筋肉で前に進み、フィオナは祈りで癒す。
でも君は? ただ裾を握って震えてるだけ。守られるだけの存在だ」
「……っ!」
青い瞳が揺れ、細い肩が震える。
本当に、その通りかもしれない。
その瞬間、仲間たちの悲鳴が響いた。
「ナギ! 助けて!」
フィオナが幻影に腕を引かれ、鏡の中へと沈んでいく。
ドランも、リィナも、セレスさえも――それぞれの“影”に絡め取られ、鏡の中へ消えていった。
「やめろぉぉぉっ!」
思わず叫ぶ僕の目の前に、幻影の“僕”が立ちはだかった。
「――君に勇者は務まらない」
幻影は冷たい声で断言した。
「ここで諦めて、仲間もろとも砂に埋もれるんだ」
裾を握る手が強く震える。
足が動かない。声が出ない。
目の前に立つのは、誰よりも弱く卑怯な――僕自身。
『ナギ! 負けるな!』
ブレードさんの声が頭を突き抜ける。
『幻影はお前の弱さそのもの! だが、それを斬り裂けるのもまたお前だけだ!』
青い瞳が揺れ、涙がにじむ。
僕は唇を噛みしめ、震える声を絞り出した。
「……僕は……弱い。でも……弱いままでも、仲間を守りたい!」
その言葉と共に、聖剣が淡い光を帯びて震え始めた。
鏡の回廊全体が、低く唸るように揺れた。
聖剣が蒼光を帯びるのと同時に、幻影の“僕”も剣を構えた。
同じ姿、同じ震え、同じ声。
だがその青い瞳は、どこまでも冷たかった。
「仲間を守りたい? 綺麗ごとだよ」
幻影が嗤う。
「震えて剣を振るう手で、誰かを救えると思うのか」
「……僕は……!」
裾を握る指が震える。
だけど、その震えを押し殺さずに、僕は声を張り上げた。
「震えてても……仲間を守る剣にはなる!」
――ガキィン!
聖剣と幻影の剣がぶつかり合い、火花と砂塵が飛び散った。
衝撃が腕を痺れさせ、細い肩が軋む。
「無駄だ。僕はお前の恐怖。斬り捨てられるはずがない!」
幻影が力任せに押し込んでくる。
「わかってる……!」
僕は青い瞳を見開いた。
「恐怖は消せない……でも、それを抱いたまま前に進む!」
その瞬間、胸の奥でブレードさんの声が轟いた。
『それでいい! 恐怖を受け入れよ! 勇者の剣は“震え”をも力に変える!』
蒼光が一層強く輝き、聖剣が幻影を押し返す。
幻影の瞳がわずかに揺らいだ。
「なっ……!」
驚愕の声と共に、幻影が後退する。
僕は裾をぎゅっと握りしめ、細い腕で剣を振り抜いた。
「――僕は弱い! だけど、それでも勇者だぁぁぁっ!」
蒼光が奔流となってほとばしり、幻影の身体を一気に裂いた。
鏡の中に無数に映し出されていた“僕”の姿が次々に砕け散り、霧のように消えていく。
静寂。
鏡の回廊には、僕ひとりが立ち尽くしていた。
「……はぁ、はぁ……」
細い肩が上下し、汗が頬を伝う。
青い瞳には涙がにじんでいた。
その時――。
崩れ落ちた鏡から光の粒子が舞い上がり、仲間たちの姿が次々に現れた。
「ナギ!」
フィオナが駆け寄り、僕の手をぎゅっと握る。
「大丈夫……? ちゃんと戻ってきてくれて……!」
「ふん、やるじゃない」
リィナはわざとそっけなく言いながら、目元を赤くしていた。
「お前が立ち向かわなきゃ、俺たち全員アウトだったぜ!」
ドランが大声で笑い、背中をばんばん叩く。
セレスは短く頷き、静かに告げた。
「……恐怖を受け入れたな。勇者の第一歩だ」
青い瞳を伏せ、僕は小さく呟いた。
「……僕は弱い。でも……震えながらでも、前に進む勇者でいたい」
その言葉に応えるように、聖剣エルセリオンが淡く輝いた。
鏡の破片が砂のように崩れ、回廊に静寂が戻った。
僕は膝に手をつき、荒い息を吐き出す。細い肩が小刻みに震えていた。
「……終わったのか?」
ドランが剣を肩に担ぎ、周囲を見渡す。
「鏡の幻影はすべて消えた。第一層は突破だな」
セレスが短く言い、杖を収める。
「ナギ君……」
フィオナが近づき、掌に淡い光を浮かべて僕の額を撫でる。
「よく頑張ったね。震えてても……ちゃんと勇者様だったよ」
「ぼ、僕は……勇者なんかじゃ……」
否定しかけた僕の言葉を、リィナが遮った。
「勇者よ」
彼女は真剣な瞳で僕を見つめる。
「さっきの戦い、私も幻影に捕まった。けど……アンタの剣が砕いてくれた。それが全部の証拠よ」
「……リィナ……」
青い瞳が揺れ、裾をぎゅっと握った。
『ふむ。よくやったぞ、ナギ』
ブレードさんの声が刀身から響く。
『恐怖を抱いたまま進んだ。それこそ勇者の証じゃ』
胸が熱くなり、僕は小さく頷いた。
その時――。
地下から、低い唸り声のような振動が響いてきた。
砂の壁が震え、冷たい風が吹き抜ける。
「……っ!?」
青い瞳が大きく見開かれる。
「まだ続きがあるみたいね」
リィナが剣に手を掛け、険しい顔をした。
「幻砂迷宮は三層構造。今のは“第一の鏡”。次は――」
セレスが言葉を切り、眉をひそめる。
「……“影を喰らう砂”の領域だ」
ぞわり、と背筋が冷たくなる。
瘴気の匂いが強まり、空気は重苦しく沈んでいた。
「おいおい、休む暇もねぇのか!」
ドランが豪快に笑いながらも、大剣を握り直す。
僕は震える肩をすくめ、裾をぎゅっと握った。
「……僕、きっとまた怖がる。でも……みんなと一緒に進む」
その言葉に仲間たちは頷き、迷宮の奥へと視線を向ける。
蒼白い光を放つ聖剣が、闇の中で道を照らしていた。
――幻砂迷宮の真の試練は、まだ始まったばかり。




