砂漠王女と幻砂迷宮の伝承
夜宴の喧噪がようやく静まり、宮殿の回廊には涼やかな夜風が吹き抜けていた。
金糸のカーテンが揺れ、遠くでは楽師たちの余韻の音色がまだ響いている。
僕は窓辺に立ち、裾をぎゅっと握りながら月を見上げていた。
戦いを越えた安堵と、次に待つ試練への不安が胸でせめぎ合っている。
「……勇者殿」
背後から静かな声。振り向くと、ライラ王女が薄衣を纏い、琥珀色の瞳でこちらを見つめていた。
「ひ、姫様……こんな夜更けに……」
慌てて裾を直そうとするが、余計に絡まって足元でもたつく。
「ふふ……やはり伝承の通りですわ」
ライラは柔らかく微笑んだ。
「聖剣は“女の心を持つ勇者”を選ぶ。だからこそ、貴方を“勇者姫”と呼ぶのです」
「ち、違いますってば……! 僕は男で……!」
顔が真っ赤になり、声が裏返ってしまう。
遠くの柱の陰で、リィナがにやりと笑っていた。
「……勇者姫、ねぇ。似合ってるじゃない」
「やめてぇぇぇっ!」
僕の悲鳴に、ドランが大爆笑し、フィオナは困ったように微笑んだ。セレスは涼しい顔で杯を傾けながら、ただ一言。
「……言葉の真意は軽んじるべきではないぞ、ナギ」
ライラは真剣な面持ちに戻り、夜空を仰いだ。
「伝承には続きがあります。“勇者姫は、幻砂迷宮を越えし時、真なる鏡を手にする”……」
「幻砂迷宮……?」
僕は青い瞳を瞬かせる。
「はい。砂漠の中心に眠る迷宮です。瘴気の源も、そこに繋がっていると」
ライラの声がわずかに震える。
「どうか……どうか、我が国を救ってください」
その瞳に宿る切実さに、僕は裾を握る指先を震わせながら、小さく頷いた。
翌朝。
王の謁見の間に再び集められた僕たちは、白い石の床に並んで跪いていた。
王は重々しい声で告げる。
「勇者よ。第一の試練“砂蝕の蠍王”を退けしこと、まこと見事であった。だが瘴気の根は未だ尽きぬ」
琥珀の瞳を光らせたライラ王女が一歩進み出る。
「瘴気の源は、砂漠の中心――“幻砂迷宮”。そこに封じられし〈真なる鏡〉の揺らぎこそ、災厄の原因なのです」
「幻砂迷宮……」
僕は裾を握りしめ、青い瞳を伏せた。
“鏡”と聞くだけで胸がざわめく。昨日、砂像兵に「勇者は裏切った」と囁かれた記憶が蘇る。
――もし、その鏡に自分の弱さが映し出されたら……?
「心配するな、ナギ」
ドランが豪快に笑って拳を叩いた。
「どんな迷宮でも筋肉で突破できる!」
「そういう単純な話じゃないでしょ!」
リィナが鋭く突っ込みつつも、ちらりと僕に目をやる。
「……まぁ、勇者様の尻を叩いてやるくらいはしてあげるわ」
「ナギ君、大丈夫。私たちが一緒だよ」
フィオナが柔らかい声で祈りの光を灯す。
その温もりが、少しだけ不安を和らげてくれる。
セレスは冷静な声で結論を告げた。
「――結局、試練を越えるのはお前自身だ。幻砂迷宮では“己を欺けぬ”」
胸の奥で、聖剣の声が低く響いた。
『ナギ……鏡は心を映す。怯えも勇気も、すべてだ。覚悟せよ』
僕は小さく息を呑み、裾を握り直した。
「……はい」
⸻
その頃――。
魔王城・玉座の間。
「幻砂迷宮……!? なんと危うい! だが安心せい、わしがナギを守る!」
魔王は身を乗り出し、拳を突き上げた。
「ま、魔王様!? 何を言ってるんですか!」
幹部ヴァルガが真っ青になって叫ぶ。
「ナギと共に迷宮に入り、試練を共に乗り越え……そこで愛を誓い合う! これぞ運命じゃ!」
魔王はうっとりと目を細め、裾をひらりと翻した。
「「そんな話じゃねぇぇぇぇぇぇっ!!」」
ヴァルガとルシュラの同時ツッコミが、黒き塔に木霊した。
数日後。
僕たちは王都サリムを後にし、砂漠のさらに奥地を目指していた。
昼は容赦なく照りつける太陽、夜は凍えるような冷気。
砂の海を越える旅は、一歩進むごとに体力を奪っていく。
「……はぁ、はぁ……」
汗で黒髪が頬に貼りつき、青い瞳が潤む。
僕は裾をぎゅっと握りしめ、震える足を前に運んだ。
「ナギ、大丈夫か?」
ドランが大きな水袋を差し出す。
「へばったら背負ってやるぞ!」
「だ、大丈夫……っ。僕も、歩くから……」
小さな声で答えると、リィナがふっと鼻で笑った。
「意地張っちゃって……でも、そういうとこ嫌いじゃないわ」
「ふふ、ナギ君はちゃんと勇者だよ」
フィオナが掌に光を浮かべ、清涼の風を起こしてくれる。
「震えてても、ちゃんと前に進んでるから」
セレスは帽子の影からじっと遠方を見据えていた。
「……近いな。幻砂迷宮の“呼吸”が、砂の底から伝わってくる」
耳を澄ませると――ざわ……ざわ……と、砂がうねる不気味な音が確かに聞こえた。
地平線の向こう、砂丘の裂け目に黒い影が口を開けている。
「あれが……幻砂迷宮……?」
僕の青い瞳が揺れ、裾を握る手が震える。
砂嵐に霞むその入口は、まるで巨大な獣の顎のようだった。
壁面には古代文字が刻まれ、崩れかけた門柱の間から冷たい風が吹き出している。
「……嫌な気配だな」
ドランが剣を抜き、眉をひそめる。
「ここは“己を欺けぬ場所”。ナギ、覚悟はいい?」
セレスの声は淡々としていたが、妙に胸に響いた。
『ナギ……ここでは、誰もお前を守れん。己の心こそが敵となる』
ブレードさんの声が低く鳴る。
「……っ」
青い瞳を見開き、僕は思わず後ずさった。
裾を握る指先が冷たくなる。
幻砂迷宮の暗い口が、まるで僕を飲み込もうと待ち構えているように見えた。
砂嵐を抜け、僕たちは幻砂迷宮の入口に立った。
冷気を含んだ風が吹きつけ、砂漠の昼とは思えないほど肌寒い。
「よし、行くぞ!」
ドランが先頭に立ち、重い扉を押し開ける。
その瞬間、ひやりとした空気が一行を包み込んだ。
中は闇。松明の光だけが、砂に埋もれた回廊を照らしている。
壁には古代文字が浮かび、ぼんやりと青白い光を放っていた。
「……気をつけろ。ここは普通の迷宮じゃない」
セレスの声が響き、皆が剣や杖を構える。
進むほどに、空気が重くなる。
耳元に、かすかな囁き声が忍び込んできた。
「勇者は……仲間を見捨てた」
「勇者は……偽りの姫……」
「っ……!」
僕は青い瞳を見開き、裾をぎゅっと握った。
あの砂像兵の声と同じだ。いや、それ以上に心を抉ってくる。
「ナギ……? どうしたの?」
フィオナが心配そうに覗き込む。
その瞬間――目の前に現れたのは、氷狼の亡骸だった。
かつて北の地で戦ったはずの幻影が、血に濡れた姿で横たわっている。
「……っや、やめて……!」
細い肩が震え、足がすくむ。
「ナギ! 幻影よ、惑わされるな!」
リィナが叫び、剣を振り抜いて狼を斬り払う。幻は霧のように消えた。
「ぐははっ! こういう時こそ筋肉で突破だ!」
ドランが無理やり豪快に笑い、壁を拳で叩く。
「ほら、響く! 現実はこっちだ!」
セレスは冷ややかに言葉を継いだ。
「――己の心を試されている。恐怖を否定するな、受け入れろ」
聖剣の声が、胸の奥に響いた。
『ナギ……怯えを抱いたまま進め。勇者の剣は、震えごと道を拓くのじゃ』
「……っ」
息を吸い込み、震える腕で剣を握り直す。
青い瞳がわずかに光を帯び、前を見据えた。
「……僕は逃げない。怖いけど、それでも……みんなと一緒に進む!」
その声と同時に、剣先が淡く光り、幻影を押し返すように迷宮の奥へと道が開けていった。
仲間たちの声が背中を支える。
砂漠の迷宮――本当の試練は、まだ始まったばかりだった。




