雨の中で差し伸べられた手
石畳を打つ雨音が、鼓動と重なる。
広間から追い出された俺――ナギは、ずぶ濡れの外套を抱きしめながら、夜の街をあてもなくさまよっていた。
冷たい雨粒が黒髪を濡らし、頬へと張りつく。華奢な肩は小刻みに震え、裾をぎゅっと握りしめた指は細く頼りない。足を踏み出すたび、泥に沈んだ靴がぐしゃりと音を立て、少女のように華奢な脚が冷え切って痺れていく。
胸元に抱えたのは、一振りの剣――聖剣エルセリオン。
誰も抜けなかったその剣が、今は俺の腕の中に静かに収まっていた。けれど温もりはなく、逆にその光が自分の弱さを照らしている気がした。
「……僕なんか、勇者になんて……」
小さな声は、すぐに雨音にかき消される。
視界はぼやけ、石畳が滲んで揺れた。体の芯から冷え、もう歩けないと足が止まる。
その瞬間――。
「……大丈夫?」
柔らかな声が、雨音の中で鮮やかに響いた。
振り向いた先、薄明かりの下に一人の少女が立っていた。栗色の髪を雨よけの布で覆い、手には小さなランタン。青い瞳がこちらを覗き込み、心配そうに揺れていた。
「ひどい……。こんなに濡れて……」
少女――フィオナは慌てて駆け寄り、俺の腕を取った。
「え……」
驚きで声が裏返る。
細い手首を掴まれ、ぐらりと身体が傾く。長い睫毛が震え、濡れた前髪の奥で頬が熱を帯びる。
「あなた、どこかのお嬢さん? 帰る家は――」
「ち、違っ……! 僕は……お、男だよ……!」
消え入りそうな声で言うと、フィオナの瞳がぱちりと大きく瞬いた。
「……え? あ、ご、ごめんなさい! だって、その……」
彼女は慌てて視線を逸らし、顔を赤らめた。
「細くて白い指に、濡れた髪が……。女の子にしか見えなくて……」
俺の胸が痛む。
そうだ、昔からずっとそう言われてきた。「女みたい」「気持ち悪い」って。
でも今、彼女の声には蔑みはなく、ただ驚きと戸惑いがあった。
「……ごめんね。でも、綺麗だから間違えるのも仕方ないよね」
フィオナの笑みはあまりにも優しくて、冷えきった心にふっと温かさが差し込むようだった。
俺は言葉を失い、ただ外套の裾を強く握りしめるしかなかった。
「……男の子、なんだね」
フィオナは小さく息を呑み、俺の顔を見つめ直した。
雨に濡れた黒髪が頬に張りつき、長い睫毛の先に雫が光る。その姿に、彼女は思わず頬を赤らめた。
「ごめんなさい。だって、本当に女の子にしか見えないんだもの……」
そう言って微笑むと、彼女の瞳は少し照れくさそうに細められた。
胸の奥がちくりと痛む。
だって――俺がこれまで浴びてきたのは、そんな言葉じゃなかったから。
「女みたいで気持ち悪い」「役立たず」。
嘲笑と蔑みばかりで、誰も「綺麗」なんて言ってくれなかった。
「……僕なんか、何の役にも立てない。戦えないし……追放されたし……」
震える声が勝手に漏れる。
細い指が外套の裾をぎゅっと握り、視線は地面に落ちた。
そのとき。
「そんなことない」
フィオナの手が、そっと俺の手を包んだ。温かさが指先に広がり、胸の奥がぐらりと揺れる。
「あなたは弱いなんて言うけど……その剣を抱えて、必死に立ってるじゃない」
彼女は真っ直ぐに言った。
「誰かを守ろうとする気持ちがあるなら、それは強さだと思うよ」
胸の奥が締めつけられる。
こんな言葉を、俺は一度でも信じていいのだろうか。
その瞬間、腕に抱えていた聖剣エルセリオンがふわりと光を放った。
剣から聞き慣れぬ声が響く。
『勇者姫よ……顔を赤らめておるな』
「なっ……!?」
俺は飛び上がりそうになる。
「だ、誰が姫だ! 僕は男だってば!」
顔が一気に真っ赤になり、声が裏返る。
フィオナはぽかんと目を丸くしたあと、思わずくすくすと笑いを漏らした。
「ふふ……なんだか、本当に可愛いね」
――胸が、また強く揺れた。
小さな焚き火がぱちぱちと音を立てる。
雨を避けて廃屋に身を寄せた俺とフィオナは、濡れた外套を乾かしながら向かい合っていた。
「……まだ震えてるね」
フィオナは薬草の香りがする布を差し出し、そっと俺の髪を拭いてくれた。
濡れた黒髪が頬に張りつき、長い睫毛の影が火の明かりで揺れる。思わず肩をすくめると、彼女が優しく微笑んだ。
「本当に、女の子にしか見えないなあ……」
「……だから僕は男だって……」
小声で抗議しながらも、耳の先が熱くなっていくのを止められない。
そんな俺を見て、フィオナは少し真剣な表情になった。
「実はね、私も……あなたと似てるんだ」
「……え?」
顔を上げると、彼女の瞳は淡い揺らぎを宿していた。
「私、孤児院で育ったの。体が弱くて、魔法の力も弱くて……“役立たず”って言われて育った」
フィオナの声は静かだった。
「仲間にすら置いていかれて、何度も一人で泣いたことがある。だから――あなたの気持ち、分かるんだ」
胸の奥がぎゅっと縮む。
俺と同じように、「いらない」と言われ続けた過去。
その痛みを知っているからこそ、彼女の言葉は真っ直ぐに響いた。
「でもね、誰かのために傷を癒せたとき……少しだけ自分が必要だって思えるの。あなたも、きっとそう」
フィオナはそっと俺の手を握り、焚き火の明かりに照らして言った。
「だから――もう、“僕なんか”なんて言わないで」
涙がにじむ。
今まで何を言われても「僕なんか……」と呟くしかなかったのに。
こんなふうに真正面から否定されて、優しく抱きとめられたことなんて、一度もなかった。
「……ありがとう」
震える声でそう絞り出すと、フィオナがふっと微笑んだ。
その笑顔に、冷え切っていた胸がじんわりと温まっていくのを感じた。
腕に抱えた聖剣エルセリオンが、かすかに明滅する。
『……勇者姫よ、また泣いておるのか』
「な、泣いてないっ……!」
慌てて裾で目元を拭う仕草は、火の明かりに照らされて余計に女の子っぽく見えたのか、フィオナが吹き出す。
「ふふっ……やっぱり可愛い」
「か、可愛くなんか……!」
そのやり取りの中で、初めて――胸の奥の孤独がほんの少しほどけていった。
その頃。
王都の一角にある石造りの館では、怒声が響いていた。
「あり得ん……! あんな女みたいな奴が、聖剣を抜いただと!?」
勇者クライドは卓を叩き、顔を真っ赤にして怒鳴った。
金髪は乱れ、青い瞳は嫉妬と恐怖に揺れている。
「勇者様、落ち着いて……」
黒髪ロングの僧侶リディアが宥めるも、その顔色は蒼白だ。
「私がそばにいるべきなのに……どうして、あの子なんかに……」
銀髪眼鏡の魔法使いセリオスは冷静を装い、指先で机を叩いた。
「……“女の心”を持つ者が資格、か。理屈に合わんが……現実として受け入れるしかない。あの子が新しい勇者だ」
しかしその瞳の奥には、嫉妬と苛立ちが隠しきれず燃えていた。
大柄な戦士ガルドは拳を握りしめたまま、何も言えない。
「……すまねぇナギ……」
その声はかすかに震えていた。
「探せ!」
クライドが再び怒鳴る。
「必ず見つけ出せ! 聖剣は俺のものだ! あの気持ち悪い小僧に渡してなるものか!」
重苦しい沈黙が広間を覆い、やがて誰も逆らえぬまま命令は下された。
――その頃。
廃屋の焚き火を前に、俺はフィオナと並んで座っていた。
濡れた外套も少しずつ乾き、胸の奥の冷たさも薄らいでいく。
「……僕でも、ここにいていいのかな」
ぽつりと零した言葉に、フィオナは迷いなく頷いた。
「もちろん。一緒にいよう、ナギ」
その瞬間、腕に抱えた聖剣エルセリオンが淡く光った。
『――認められたのだ。勇者姫よ、お前の居場所はここにある』
「だ、だから姫じゃないってば!」
裏返った声に、フィオナが思わず笑う。
でも――その笑顔が胸に灯をともした。
知らず知らずのうちに、俺は聖剣の柄を強く握りしめていた。
遠くで迫る暗雲の気配に気づかないまま。