砂蝕の蠍王
夜明けの砂漠は、まるで別の世界だった。
白銀に染まっていた砂丘は、朝日を浴びて赤銅色に輝き始める。冷えきった空気が少しずつ熱を帯び、乾いた風が頬を撫でた。
「……ふぅ。やっと夜を越したな」
ドランが肩を回し、乾いた砂を払った。だが表情は明るくはなかった。
リィナは剣を腰に戻し、鋭い眼差しで地平線を見据える。
「油断しないで。夜の間、ずっと聞こえてたでしょ? 地の底を這う、嫌な音」
耳を澄ますと、確かに砂の下から響いてくる。
ずず……ずずず……と地を擦るような音。時折、がりりと岩を削る鋭い音。
僕は思わず裾を握りしめ、青い瞳を揺らした。
「な、何か……近づいてきてる……」
フィオナが掌を合わせ、小さく祈りを口にする。
「この砂漠に棲む“王”……地を食らい、太陽を嫌う蠍の怪物だって、村の人が……」
「伝承じゃ“砂蝕の蠍王”と呼ばれていたな」
セレスが冷静に言葉を重ねる。
「体長は数十メートル。毒針ひとつで軍を全滅させる。……だが、避けては通れない」
その言葉の直後――。
大地が鳴動した。
砂丘が崩れ、まるで海の波のように砂が盛り上がる。
轟音と共に、巨大な影が姿を現した。
黒曜石のように硬質な甲殻。何十もの脚が砂をかき分け、長大な尾が天を突き刺すように振り上げられる。
太陽を背にしたその巨体は、まさしく砂漠の王――スコーピオキングだった。
「で、でか……っ!」
僕の声が裏返り、裾をぎゅっと握る。
その青い瞳を映した瞬間、蠍王の顎が軋み、耳をつんざく咆哮が砂漠に轟いた。
スコーピオキングの尾が、陽光を裂くように振り下ろされた。
地を砕く轟音と共に、鋭い毒針が砂丘を抉り、爆ぜるように砂煙が巻き上がる。
「っぶねぇ!」
ドランが大剣を構え、横から迫った尾を弾き飛ばした。衝撃だけで腕が痺れ、足元の砂に深く沈み込む。
「こいつ、ただの力任せじゃねぇ……動きが速ぇぞ!」
「ナギを狙ってる……!」
リィナが低く呟き、素早く駆け出す。蠍王の複眼が青い瞳を狙い定めたのを読み取り、刃を閃かせてその視線を逸らすように切り込む。
「勇者ばかり見てんじゃないわよ!」
蠍王の脚が地を穿ち、砂嵐が巻き起こる。砂が目と口を塞ぎ、呼吸すら奪われそうになる。
「……ナギ君!」
フィオナが祈りの光を解き放ち、淡い膜が一行を包んだ。
光の結界が砂嵐を弾き、荒れ狂う視界の中に道を拓く。
「これ以上は……長く持たないよ!」
「なら、早く隙を見つけるしかないな」
セレスは冷静に蠍王を観察し、呟いた。
「……甲殻は異常な硬度。だが――毒針の根元、そこだけは外殻が薄い。狙うべきは一点だ」
僕は裾をぎゅっと握りしめ、青い瞳を揺らす。
(……あんな巨大な怪物を、僕が……? でも、僕しかできないなら……!)
蠍王が再び尾を振り上げ、光を遮る影が僕を覆った。
喉が詰まり、震える声が漏れる。
「……っ!」
その瞬間、腰の聖剣が光を脈打たせた。
『恐れるな、ナギ! 震えごと斬り裂け! 勇者の剣は怯えをも力に変える!』
ブレードさんの声に背中を押され、僕は震える手で剣を握り直した。
「……僕は、逃げない!」
砂漠の空に、勇者の蒼光が閃いた。
砂嵐を裂いて、蠍王の尾が再び閃いた。
その毒針は空気を切り裂き、鋭い唸りを響かせる。
「ナギ、今だ!」
リィナが剣で脚を牽制し、蠍王の体勢を一瞬だけ崩す。
「任せろぉっ!」
ドランが大剣を振り下ろし、甲殻を叩き割る。硬い外殻が火花を散らすが、その一撃は確かに動きを止めた。
「ナギ君……!」
フィオナの祈りの光が僕の体を包み、震える腕に力を与えてくれる。
「どうか、この一撃を守り抜いて!」
「尾の根元だ!」
セレスが鋭く叫ぶ。
「そこしか貫ける場所はない!」
僕は裾をぎゅっと握り、青い瞳を大きく見開いた。
(……震えてる。でも、仲間が信じてる。だったら……僕がやらなきゃ!)
「……いくよ、ブレードさん!」
細い腕で聖剣を掲げ、僕は砂を蹴って駆け出した。
『放て、ナギ! 勇者の刃を!』
蒼光が迸り、尾の根元を正確に射抜く。
甲殻が砕け、毒針が大きく揺らいだ。蠍王が絶叫し、砂漠全体が震えるほどの咆哮を上げる。
「……やった、の……?」
思わず息を吐いた瞬間、蠍王の全身から紫の瘴気が噴き出した。
「ちょっ……まだ本気じゃなかったの!?」
リィナが叫ぶ。
巨体がさらに膨張し、甲殻が漆黒に染まっていく。複眼が妖しく輝き、振り下ろされた尾はさっきの比ではない速度と重さを帯びていた。
「くっ……防ぎきれねぇ!」
ドランが大剣ごと吹き飛ばされ、砂に叩きつけられる。
「ドラン!」
僕の声が裏返り、青い瞳が大きく揺れる。
蠍王が全力で僕を狙っている。
恐怖で細い肩が震え、裾を握る指先が冷たくなった。
『怯むなナギ! ここからが真の試練だ!』
ブレードさんの声が鋼のように響く。
――勇者は、逃げられない。
巨躯の蠍王が、尾を高く掲げた。
漆黒に染まった甲殻は夜のように重く、振り下ろされれば大地すら割れるだろう。
僕の細い肩は震えていた。
裾をぎゅっと握り、唇が小さく震える。
(……怖い。怖くて、足が動かない……)
「ナギーーーッ!」
ドランが砂まみれの体で立ち上がり、咆哮する。
「てめぇが踏ん張らなきゃ、俺たちは全員終わりだ!」
「そうよ! 勇者かどうかなんてどうでもいい!」
リィナが剣を振るい、蠍王の注意を一瞬だけ逸らす。
「アンタがここで戦えるか、それだけよ!」
「ナギ君……」
フィオナが祈りの光を広げる。
「私たちが信じてるのは“震えても前に進む”あなた……!」
「決めるのはお前自身だ」
セレスの声は冷静で、けれど確かな熱を帯びていた。
仲間の声が胸を打つ。
僕の青い瞳が揺れ、涙がにじんだ。
『ナギ……今こそ、恐怖を抱いたまま進め。震えるその足で剣を掲げろ!』
ブレードさんの声が轟き、刀身が蒼光を帯びて震える。
僕は大きく息を吸い込み――叫んだ。
「ぼ、僕なんか……勇者にふさわしくないかもしれない! でも……!
仲間を守りたい気持ちなら、誰にも負けない!」
その言葉と共に、エルセリオンが光を解き放った。
砂漠を照らす蒼い光が一直線に伸び、蠍王の尾を真正面から打ち砕いた。
「ギィィィィアアアッ!!」
蠍王が絶叫し、漆黒の甲殻が次々に砕け散る。
巨体が痙攣し、砂嵐と共に崩れ落ちていった。
静寂。
風が吹き抜け、月光に照らされた砂丘だけが残る。
「……や、やった……の?」
僕は聖剣を握る細い腕を震わせ、裾を握りしめたまま仲間を振り返った。
「やったぜぇっ!」
ドランが大笑いし、拳を振り上げる。
「ふん、勇者のくせに泣き顔で勝つなんてね」
リィナは呆れ顔をしながらも、口元をほんのり緩めていた。
「ナギ君……勇者の顔、してたよ」
フィオナは涙を浮かべて微笑み、光でみんなの傷を癒していく。
「……あの瘴気は完全に浄化された」
セレスが星空を見上げ、静かに頷いた。
僕は震える足で一歩を踏み出し、青い瞳を星に向ける。
「……僕は勇者じゃないかもしれない。でも――勇気を選んで進む僕でいたい」
その声に応えるように、エルセリオンが淡く光を放った。




