幹部襲来
瘴気に包まれた峡谷の奥。
空気は鉛のように重く、吐く息は白ではなく黒い霞を帯びていた。
僕たちは肩を寄せ合い、崩れかけた岩場を進んでいた。
「……おかしいわ」
リィナが剣に手をかけ、周囲を警戒する。
「さっきまでの狼や亡霊とは違う……気配が濃すぎる」
フィオナは小さく祈りを紡ぎ、僕の袖をそっと掴んだ。
「ナギ君……何かが、来るよ」
そのとき、谷底から吹き上がるように瘴気が渦を巻いた。
地響きと共に、二つの影がゆっくりと姿を現す。
一人は、全身を黒鉄の鎧に包んだ巨躯。
赤黒い鬣を持つ獣のような顔を覗かせ、握る戦斧は人ひとりを容易く砕きそうな大きさ。
――ヴァルガ。魔王軍の戦闘幹部。
もう一人は、銀の仮面をつけた女。
細くしなやかな身体を黒布で包み、指先からは紫の瘴気が煙のように流れ出していた。
――ルシュラ。魔王軍の幻術師。
「ほぉ……これが聖剣の勇者か」
ヴァルガの声は雷鳴のように低く響き、峡谷の岩を揺らした。
「小僧、貴様が我らの王の敵となる存在かどうか、確かめてやろう」
「ふふ……震えているじゃない」
ルシュラの仮面の奥から、艶やかな声が流れる。
「その細い肩、震える指……まるで舞台に立たされた人形ね。勇者ごっことしては上出来かしら」
僕は思わず裾をぎゅっと握り、青い瞳を揺らした。
足がすくみそうになるのを、仲間たちの存在がかろうじて支えてくれる。
「ナギ、下がるな!」
ドランが前に躍り出て、大剣を構える。
「俺が盾になる! 仲間を信じろ!」
「……相手は今までの瘴気とは格が違う。全員、油断は禁物よ!」
リィナが鋭く声を張り、剣先を二人へ向けた。
ブレードさんが刀身から低く響く。
『ナギ……奴らは魔王軍の幹部。ここまでとは、運がいいのか悪いのか……だが覚悟しろ。逃げ道はもうない』
「……っ!」
僕は震える指で聖剣を握りしめ、敵影を見据えた。
峡谷を切り裂く冷風が、決戦の幕開けを告げていた――。
ヴァルガが一歩踏み込むたびに、大地が沈み込んだ。
戦斧を振り上げる動作だけで、峡谷の岩壁がひび割れを走らせる。
「おらぁぁっ!」
ドランが雄叫びをあげ、大剣を全力で振り抜いた。
だが――。
ガァンッ!
戦斧と大剣がぶつかった瞬間、轟音と共にドランの巨体が吹き飛んだ。
「ぐっ……お、おいおい……まじかよ……!」
岩に叩きつけられた彼は、血を滲ませながらも歯を食いしばる。
「甘い」
ヴァルガは鼻で笑い、巨体をわずかに揺らしただけだった。
すかさず、リィナが素早く回り込み、剣を閃かせる。
「はぁっ!」
鋭い突きが鎧の隙間を狙う。
だが、その瞬間――。
視界がぐにゃりと歪んだ。
「なっ……!?」
リィナの足元から瘴気の糸が絡みつき、身体の動きを封じる。
「幻に惑わされなさい」
ルシュラの囁きが耳を撫で、冷気のような悪寒が走る。
次の瞬間、リィナは背後から殴打を受け、膝をついた。
「リィナ!」
フィオナが慌てて駆け寄り、祈りを捧げる。
淡い光が傷を塞ぐが、すぐに新たな痛みが仲間を襲う。
「癒やすのに必死で……追いつかない……!」
フィオナの声は震えていた。
「ふふ……勇者の仲間にしては、脆いものね」
ルシュラの仮面の奥から、艶めいた笑い声が漏れる。
セレスは冷静に周囲を見渡しながらも、眉をひそめた。
「……完全に格が違う。これは戦力差というより、存在そのものの圧だ」
僕は細い肩を震わせながら裾を握りしめ、必死に聖剣を構えた。
でも、青い瞳は揺れていた。
『ナギ……恐れるな。だが、今はまだ踏み込むな』
ブレードさんの声が胸に響く。
仲間が押され、声が掻き消されていく中。
幹部二人の影が、じわりと僕を取り囲んでいった。
ヴァルガの巨斧が再び振り上げられ、空気が震えた。
その一撃が落ちれば――誰かが確実に倒れる。
「……っ!」
僕は細い肩をすくめ、裾をぎゅっと握った。
青い瞳が大きく揺れ、長い睫毛が震える。
心臓は耳を突き破りそうなくらいに鳴り響き、喉が焼けるように乾いていた。
「ナギ!」
リィナが血を滲ませながら叫ぶ。
「アンタが怯んだら、私たち全員やられるのよ!」
「くそっ……俺の代わりに……立ってくれ!」
壁にもたれながら、ドランが声を振り絞る。
「ナギ君……大丈夫。私、ずっと祈ってるから!」
フィオナの光が淡く揺れ、僕の背を支えてくれる。
「分析は終わった……奴らの狙いは勇者ただ一人だ。なら――」
セレスは冷静に目を細めた。
「お前が立たなければ、この場は崩壊する」
――仲間たちの声が、胸に突き刺さった。
『ナギ。聞け。震えることは恥ではない。だが……震えたまま進む者を、人は勇者と呼ぶ』
ブレードさんの声が、はっきりと胸に響いた。
「……僕なんか、って……もう言わない」
唇がかすかに震えながらも、声は確かだった。
濡れた黒髪を払い、青い瞳をまっすぐ前に向ける。
その瞬間、エルセリオンの刀身がまばゆく輝き、広間を白銀に染め上げた。
「なに……!?」
ルシュラが仮面の奥で目を細める。
「はぁぁぁっ!」
僕は剣を高く掲げ――しかし、思わず口を滑らせてしまった。
「勇者……姫、参上っ!」
「は、姫ぇ!?」
リィナが思わず噴き出し、ドランが腹を抱えて笑いかける。
「おいおい! 場違いすぎるだろ!」
「ち、違っ……今のは!」
顔を真っ赤にして叫ぶ僕をよそに、ブレードさんがわざとらしく声を張り上げた。
『よく言ったぞ、“勇者姫”! その名を背負え!』
「う、うるさいぃぃっ!」
涙目で抗議しながらも、僕の剣は確かに光を増していた。
その輝きは、瘴気を裂き、ヴァルガとルシュラの動きを一瞬だけ止めるほどの力を放っていた。
白銀の光が広間を満たし、瘴気を押し返した。
ヴァルガの巨斧がぎしりと軋み、ルシュラの仮面に走る紋様が砕ける。
「ぐっ……この力……聖剣が、完全に覚醒しつつあるだと……!?」
ルシュラの声が震えた。
「ちぃっ、ガキのくせに……!」
ヴァルガが吠え、力任せに斧を振り下ろす。
「や、やめろおおおぉっ!」
僕は涙目で叫びながら、細い腕で聖剣を振り抜いた。
青い瞳が光に包まれ、刀身から奔流のような光が解き放たれる。
――轟音。
光の奔流が直撃し、ヴァルガの巨体を吹き飛ばす。
ルシュラも仮面を砕かれ、後方へと退いた。
「ぐぅっ……今は退くぞ!」
ルシュラが声を張り上げ、影のような瘴気に二人の姿が呑み込まれる。
「待てぇっ!」
ドランが駆け出そうとするが、セレスが腕を伸ばして止める。
「追うな。今の一撃で空間そのものが歪んでいる。奴らを追えば巻き込まれる」
静寂が訪れる。
崩れた天井から雪が舞い落ち、篝火の炎がぱちぱちと揺れた。
「……はぁ……はぁ……」
剣を握る細い指が震え、僕はその場に膝をついた。
裾をぎゅっと握りしめ、顔は真っ赤に染まっていた。
「ナギ!」
仲間たちが駆け寄る。フィオナが回復の光を注ぎ、リィナが剣を収めて支えてくれる。
「……やっぱり、アンタは勇者だわ」
「ふん……勇者姫だけどな!」
ドランが豪快に笑い、場に再び温かな空気が戻っていく。
「ち、ちがうってばぁぁぁ!」
僕の裏返った悲鳴に、仲間たちの笑いが広間に広がった。
だがそのとき――ブレードさんの声が胸の奥に低く響く。
『……ナギ。奴らは本気ではなかった。次に来るときは、この光では足りぬ』
ぞくりと背筋が震える。
けれど、仲間たちの手の温もりがその不安を押し返してくれた。
「……うん。次は、もっと強くなる」
濡れた黒髪を払って顔を上げ、青い瞳に決意を宿す。
こうして――幹部との初遭遇は、勇者の一撃によって退けられた。
だが、それは次なる試練の序章にすぎなかった。




