黒淵の魔樹
峡谷の中央へ進むと、空気はさらに重く淀んでいった。
瘴気の匂いが鼻を刺し、喉の奥にざらついた苦味を残す。
「……見ろ」
セレスが指差した先に、異様な影がそびえていた。
谷の中心に、一本の巨大な樹。
その幹は黒くひび割れ、枝は空を突くようにうねっている。
まるで無数の腕が天を掴もうと伸びているかのようだった。
「……木?」
僕は思わず呟いた。
だが次の瞬間、枝の隙間から瘴気の霧が吹き出し、耳障りな羽音が広がった。
黒い虫の群れが、樹から湧き出すように飛び立っていく。
「くっ、ただの木じゃねぇな……!」
ドランが大剣を握り直し、低く唸った。
リィナは眉をひそめる。
「根元から瘴気をまき散らしてる……。放っておいたら谷全体が呑まれるわ」
フィオナは胸元で両手を組み、震える声で祈りを紡いだ。
「……闇を祓う光よ、どうか私たちを守って」
聖剣・エルセリオンがかすかに震え、声を響かせる。
『……ナギ、この魔樹はただの自然の産物ではない。“核”がある。
それを断たねば、この谷は死に飲まれるだろう』
僕は青い瞳を見開いた。
指先が震え、裾をぎゅっと握りしめる。
「核を……僕が斬るんだね」
瘴気の風が吹き荒れ、黒樹の枝がざわめきながら動き始めた。
その先端が触手のようにうねり、こちらに狙いを定める。
「来るぞ!」
セレスの声と同時に、大地が轟き、黒淵の魔樹が咆哮を上げた。
黒淵の魔樹が震え、枝の群れが生き物のようにうねり始めた。
その先端は鋭い槍のように尖り、唸りを上げながら襲いかかってくる。
「ちっ……こんなもん、斬ってやるよ!」
ドランが大剣を振り上げ、迫る枝を力任せに叩き落とした。木片が飛び散るが、切り口からはすぐに黒い樹液が滲み、再生を始める。
「無駄よ! 再生が早すぎる!」
リィナが鋭く叫び、剣で枝を払いながら後退した。
するとその隙を狙ったように、黒い羽音が耳を塞いだ。
「……っ!」
瘴気を帯びた虫の群れが一斉に飛びかかってくる。大きさは人の拳ほどもあり、牙や針がぎらついていた。
「ナギ君、下がって!」
フィオナが光の壁を展開し、僕の前に立ちふさがる。
柔らかな光が広がり、虫たちを弾き飛ばした。だが防ぎきれなかった数匹が僕の腕にまとわりつき、針を突き立てようとする。
「ひっ……!」
思わず身を竦め、裾を握りしめる。震える手に汗が滲んだ。
『怯むなナギ! 剣を振れ!』
ブレードさんの声が鋭く胸を打ち、僕は細い腕で必死に聖剣を振るった。
光の弧が走り、まとわりついた虫が焼かれるように消滅する。
「よし! 効いてるぞ!」
ドランが叫び、虫の群れを大剣で薙ぎ払った。
リィナも炎を纏った剣を振り抜き、枝ごと虫を焼き払う。
だが――。
「数が……多すぎる!」
セレスの冷静な声が響いた。
見渡せば、枝の合間から新たな瘴気の群れが湧き出しては飛び立ち、空を黒く覆い尽くしていく。
瘴気の渦に包まれながら、僕は剣を握る手に力を込めた。
胸の奥で、強く鳴り響く鼓動がひとつ。
「僕が……やらなきゃ」
枝と虫の嵐が迫り、黒淵の魔樹は不気味な唸り声をあげる。
瘴気に覆われた空気は重く、息を吸うだけで胸が痛む。
黒淵の魔樹は枝を無数に振り乱し、虫の群れを吐き出し続けていた。
それはまるで「森そのものが敵になった」かのようだった。
「ナギ君! 正面は任せて!」
フィオナの祈りが光となって広がり、僕の視界を遮る瘴気を浄化していく。
その光の中で、ドランが雄叫びを上げて突撃した。
「おらぁぁぁっ!」
大剣が枝をまとめて叩き折り、虫を薙ぎ払う。血のような黒樹液が飛び散るが、彼は怯むことなく進んでいく。
「ドランだけ突っ込ませるわけにはいかないわ!」
リィナが跳び、剣に炎を宿した。
舞い散る氷雪をも燃やすような紅の斬撃が枝を焼き切り、再生を一瞬だけ止める。
「今だ、動け!」
セレスが冷静に指示を飛ばし、僕の背中を押した。
「ぼ、僕が……!」
裾をぎゅっと握りしめ、震える足を前に出す。
枝が迫るたび、ブレードさんの声が耳に響いた。
『切れ、ナギ! その震えごと斬り裂け!』
聖剣が光を帯び、枝を払うたびに瘴気を弾き飛ばす。
僕は必死に剣を振りながら、仲間たちが作ってくれた細い一本道を突き進んだ。
「ナギ、根元を狙え!」
ドランが叫ぶ。
「核は……魔樹の中心部よ!」
リィナの声が続き、フィオナの祈りが僕の足元を照らす。
その先、絡み合った根の奥に、禍々しく脈動する瘴気の塊が見えた。
――あれが、黒淵の魔樹を動かす核。
全身が強張り、喉が乾く。
けれど、仲間たちの声が背を押してくれていた。
「……僕が、やる!」
青い瞳に光を映し、僕は聖剣を高く掲げた。
脈動する瘴気の核は、不気味な心臓のように脈打っていた。
黒い霧が渦を巻き、絶え間なく枝や虫を生み出している。
近づくだけで足がすくみ、胸の奥が冷たくなる。
「ナギ君!」
フィオナの声が、恐怖に押しつぶされそうな僕の耳に届く。
「信じてる……あなたなら、光で浄化できる!」
「怯むな!」
リィナの炎剣が脇を走り抜け、迫る枝を焼き払った。
「前を見ろ! 聖剣の勇者でしょ!」
「ナギ! 突っ込めぇぇぇ!」
ドランの雄叫びが背を押し、
「……行け。恐怖は真実を示しているだけだ」
セレスの冷静な言葉が、震える膝に力を宿した。
裾をぎゅっと握りしめ、僕は一歩踏み出す。
聖剣の刀身が眩しく輝き、ブレードさんの声が響く。
『今だナギ! “勇者の光刃”を解き放て!』
「……お願い、エルセリオン!」
青い瞳を見開き、全身の力を剣に込めた。
刹那――。
聖剣から溢れた光が奔流となり、核を包み込む。
闇は悲鳴のような振動をあげ、枝も虫も黒い煙となって霧散した。
最後に核が爆ぜ、まばゆい光が谷を満たす。
瘴気は霧散し、空気が澄み渡っていった。
「や、やったのか……?」
ドランが肩で息をつきながら呟く。
「ふん、どうやら成功したみたいね」
リィナは剣を納め、口元に安堵の笑みを浮かべた。
「ナギ君……本当に、お疲れさま」
フィオナが祈りを捧げ、光の粒が僕の周りを舞う。
「……瘴気の源を絶った。これで谷は落ち着くだろう」
セレスは淡々と結論を告げる。
僕は剣を支えながら、まだ震える腕を見つめた。
汗で濡れた前髪が頬に張りつき、青い瞳が揺れる。
「ぼ、僕……できたんだ……」
裾を握る手に力が入り、頬がじんわり熱くなる。
『当然だナギ。お前は勇者だからな。……“勇者姫”』
ブレードさんの茶化す声に、
「だーかーらぁ! 姫じゃないってばぁぁ!」
僕は真っ赤な顔で叫び、仲間たちの笑い声が響いた。
黒淵の谷には光が差し込み、次なる試練への道が静かに開かれていった。




