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瘴気狼群

 谷間の道は、思った以上に狭かった。

 切り立った岩壁が両側から迫り、頭上には灰色の空が細い帯のように覗いているだけだ。


 歩を進めるごとに、空気がじっとりと重くなっていく。

 喉がひりつき、吐く息に黒い靄が混じるのを見て、思わず細い肩が震えた。


「……瘴気だな」

 セレスが前を見据え、冷静に告げる。

「谷底から湧き上がっている。この先は本格的に危険だぞ」


 僕は無意識に裾をぎゅっと握りしめた。

 氷晶の祭壇で対峙した氷狼――その蒼い瞳と凍りつく吐息の記憶が甦る。

 胸の奥がひやりと冷たくなり、足が止まりそうになる。


『ナギ……震えを隠すな。それは弱さじゃない。試練に立ち向かう者の証だ』

 ブレードさんの声が、刀身から低く響いた。

 脈打つ光がわずかに広がり、僕の指先を温める。


「……うん」

 小さく答えて、青い瞳を前へと向ける。

 それでも胸の鼓動は早く、長い睫毛がかすかに震えた。


「おい、しっかり歩けよ!」

 ドランが振り返り、豪快に笑った。

「このくらいで怯えてたら奥までたどり着けねぇぞ!」


「ナギ君、大丈夫」

 フィオナが祈るように両手を胸に重ね、微笑んでくれる。

「私たちが一緒だから」


「……気を引き締めなさい」

 リィナが小さく舌打ちしつつも、剣に手を添えて言う。

「嫌な気配が濃くなってきてるわ」


 その言葉と同時に――谷の奥から、不気味な唸り声が風に混じって響いてきた。


 谷の奥から響く唸り声は、次第に数を増していった。

 カツ、カツと岩肌を引っかく音。湿った息遣い。影が、左右の岩壁からじわりと浮かび上がる。


「――来る!」

 リィナが剣を抜き放ち、鋭く叫んだ。


 次の瞬間、黒い瘴気を纏った狼たちが姿を現した。

 その毛並みは腐食したようにぼろぼろで、瞳だけが赤くぎらついている。

 牙の隙間からは瘴気が漏れ、触れた岩をじゅうっと黒く焦がした。


「な、なんだよ、こいつら……!」

 ドランが大剣を構える。

「氷狼の下位種かと思ったが、完全に呪われてやがる!」


 群れは十、いや二十を超えていただろう。

 そのうちの一頭が跳びかかってきた瞬間、僕の視界に――氷狼の蒼い瞳がよみがえった。


「っ……!」

 細い肩が震え、裾をぎゅっと握りしめる。

 青い瞳が一瞬揺れ、呼吸が浅くなる。


『怯えるな、ナギ! あれは過去の影にすぎぬ!』

 ブレードさんの声が鋭く胸を打った。

 けれど足は地に縫いつけられたように動かなかった。


 その間に、瘴気狼の牙が迫る――!


「甘い!」

 リィナの剣閃が横から走り、狼の顎を弾き飛ばした。

「何してんのよナギ! 勇者が立ち止まってどうすんの!」


「回復は任せて! 怪我したらすぐ言って!」

 フィオナが祈りを紡ぎ、仲間たちに光を振りまく。


 ドランは大剣を振り下ろし、二匹をまとめて吹き飛ばす。

「行けナギ! お前が動かねぇと切り抜けられねぇぞ!」


 セレスは冷静に観察を続け、短く告げた。

「奴らは瘴気と同化している。斬り払えるのは聖剣だけだ」


 青い瞳が見開かれ、僕は唇を噛む。

 足はまだ震えていたけれど、指先は聖剣を強く握りしめていた。


「……僕が、やらなきゃ……!」


 エルセリオンが脈動し、刀身が淡く光を帯びる。


 瘴気狼の群れは、まるで大河の濁流のように押し寄せてきた。

 牙と爪が閃き、岩壁に爪痕を刻むたび、黒い瘴気が地を這って広がっていく。


「数が多すぎる……!」

 リィナが剣を振るい、二匹を切り伏せるが、その傷口はすぐに瘴気で塞がってしまう。

「やっぱり普通の剣じゃ埒が明かない!」


「なら俺が道を切り開く!」

 ドランが大剣を振り抜き、十匹近い狼をまとめて薙ぎ払った。

 その豪腕にも関わらず、狼たちはすぐに立ち上がり、赤い瞳をぎらつかせる。


「くっ……!」

 ドランが歯を食いしばる横で、フィオナが祈りを捧げる。

 光の粒が仲間の体を包み、裂けた傷口を瞬時に塞いでいった。

「ナギ君! あなたが……あなたが動かなきゃ!」


「……僕が……!」

 裾をぎゅっと握る指に汗が滲む。

 胸がきゅっと締め付けられ、氷狼の蒼い瞳が脳裏をよぎった。


 そのとき――腰の聖剣エルセリオンが熱を帯び、声が響く。

『恐れるな、ナギ。仲間はお前を信じて戦っている。応えるのは――お前だ』


 青い瞳がわずかに光を宿す。

 僕は息を吸い込み、細い指で聖剣を高く掲げた。


「……お願い、ブレードさん。僕に、力を……!」


 刀身が閃光を放ち、瘴気の闇を切り裂いた。

 一瞬、狼たちの赤い瞳が怯えに揺らぎ、足が止まる。


「今だ!」

 リィナが鋭く叫び、狼の首を一閃。

 ドランが轟音を立てて突進し、群れを左右に薙ぎ払う。


 セレスの冷静な声が飛ぶ。

「ナギ、その光が奴らの瘴気を断ち切る。斬り抜けろ!」


「……うん!」

 僕は震える足を前に踏み出し、青い瞳をまっすぐに狼群へ向けた。

 細い肩がまだ震えていたけれど――剣を振るう腕だけは、確かに前へと伸びていた。


 聖剣の軌跡が白銀の光を描き、瘴気狼の群れを切り裂いていく。

 悲鳴のような咆哮と共に、影の塊が次々と霧散した。


『そうだナギ。その震えは弱さじゃない。前へ進む勇気だ』

 ブレードさんの声が胸の奥に重なり、光はさらに広がっていく。


 仲間たちの連携と聖剣の光――その二つが重なった瞬間、群れは崩れ、道が開かれた。


 最後の瘴気狼が悲鳴を上げ、霧散していった。

 谷を覆っていた黒い瘴気も薄れ、ひんやりとした風が吹き抜ける。


「ふぅ……なんとか、なったな!」

 ドランが大剣を肩に担ぎ、豪快に笑った。


「無茶するんだから……」

 リィナは息を整えながらも、剣先を払って鞘に納める。

「でも、あんたの力押しも……今回は役に立ったわ」


「えへへ……少しはみんなの役に立てたかな」

 フィオナが両手を胸に重ね、安堵の微笑みを浮かべた。

 光の粒が彼女の祈りと共に舞い、傷跡すら残さず消えていく。


 セレスは冷静に辺りを見渡しながら呟く。

「瘴気狼は、ただの獣が歪んだものではないな。結界の残滓と同調していた……。つまり、この谷の中心に“核”がある」


 その言葉に、僕は細い肩をすくめ、裾をぎゅっと握った。

 まだ鼓動は速く、青い瞳が揺れている。


『ナギ。お前は震えていた。だが、それでも剣を振るった』

 ブレードさんの声が胸に響き、聖剣の刀身が淡く光る。

『震えを抱えたまま前に進む――それが勇者だ』


「……うん」

 小さく答えた声は震えていたけれど、心の奥に温かい火が灯っていた。


 ふと、昨夜の宴を思い出す。

「勇者姫だ!」と笑ってはしゃいだ子供たちの声。

「姫じゃないってばぁ!」と赤面して叫んだ自分――。


「……あぁぁ、思い出したらまた恥ずかしくなってきたぁ……」

 顔を覆い、裾を握ったままうずくまる僕に、仲間たちは思わず笑みをこぼした。


「勇者がそんなに赤くなってどうすんだよ!」

 ドランが大声で笑い、リィナは呆れたように肩をすくめる。

「ほんと、子供みたい……でも、それがあんたらしいわね」


 光を反射する谷の出口。

 僕たちはその先に待つ試練を知らぬまま、一歩を踏み出していった。


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