広がる噂と小さな出会い
王都の朝はざわめきで始まった。
前夜、空に走った光の筋――聖剣が抜かれた証が、町の隅々にまで噂を運んでいたのだ。
「聞いたか? 聖剣が……!」
「ついに勇者が現れたんだ!」
「いや、見た者の話じゃ“姫”みたいに綺麗な子だったらしいぞ?」
市場では野菜を並べる手が止まり、職人たちの口からは仕事より先に噂が飛び交う。
パン屋の少年が身振り手振りで「白銀の剣を抱いた少女のような勇者さまだ」と語ると、近所の女将たちが目を丸くした。
「女の子なのかい?」
「いや、どうも男らしいぞ」
「なにそれ……ますます神秘的じゃないか!」
庶民の憧れと好奇心が一気に膨らんでいく。だが、同時に眉をひそめる者もいた。
「子供に何ができる……?」
「勇者だと? 悪い冗談じゃないのか」
歓声と疑念が交錯する中、王都全体がひとつの噂に包まれていた。
その頃――城の奥。
聖剣を抜いた本人であるナギは、広い客間のベッドに腰掛けていた。
濡れた外套は乾かされているが、彼の黒髪はまだ少し湿っていて、頬に張りつく房が彼の華奢さをいっそう際立たせていた。
「……僕なんかが……勇者だなんて」
自分に向けられる噂の熱気を想像しただけで、胸が苦しくなる。
裾をぎゅっと握りしめ、青い瞳を伏せる仕草は、どこから見ても少女のように儚かった。
その報せは、勇者パーティにも届いていた。
訓練場に響いた兵士の声に、クライドが顔を上げる。
「聖剣が……抜かれた? は……?」
金髪をかき乱し、蒼ざめた瞳で兵士に詰め寄る。
「誰がだ! 誰が聖剣を抜いたと言うんだ!」
兵士は口ごもりながら答えた。
「それが……まだ幼い、少女のような……いや、少年だと」
「なっ……!」
クライドの顔が歪む。
「あの女みたいな役立たずが!? 俺じゃなくて……!?」
その叫びに、仲間たちの反応は三者三様だった。
リディアは扇を閉じ、冷たい視線を落とす。
「信じられない……勇者様の隣にふさわしくないと思っていたのに。あの子が……?」
声には嫉妬が滲み、唇は悔しさに震えていた。
セリオスは眼鏡を押し上げ、皮肉な笑みを浮かべる。
「ふん……理屈に合わんな。聖剣が“女の心”を認めた? 馬鹿げている……だが、もし真実なら――」
彼は言葉を切り、静かに吐き捨てた。
「……我々の立場は危うい」
ガルドは腕を組んで黙り込んでいたが、やがて低く唸った。
「……ナギが本当に抜いたってのか。あいつ、戦えもしねぇと思ってたが……」
拳を握る音が、沈黙より重く響いた。
クライドは苛立ちに駆られ、机を叩きつける。
「ふざけるな……! 勇者は俺だ! あんな女みたいな奴に勇者を名乗らせてたまるか!」
その声は、嫉妬と恐怖の入り混じった叫びだった。
玉座の間では、重臣たちが集まり緊迫した議論を繰り広げていた。
「聖剣が抜かれた以上、あの者こそ勇者と認めざるを得ぬ」
「しかし、ただの子供だというではないか」
「いや、女のような容姿の少年だとか……」
ざわめきは収まらず、意見は真っ二つに割れていた。
「救世の象徴として祭り上げるべきだ!」
「いや、そんな者に国を任せられるか!」
玉座に座る国王さえ、険しい顔を崩さなかった。
「……真偽を確かめよ。聖剣が選んだのならば、我らは従わねばならぬ」
――その一方で。
城の一室で休むナギは、そのざわめきを廊下越しに感じ取っていた。
厚い扉に背を預け、裾をぎゅっと握る。
「……やっぱり、僕なんかじゃダメなんだ……」
長い睫毛が伏せられ、青い瞳に陰りが落ちる。
華奢な肩が小さく震え、まるで嵐の中に取り残された少女のようだった。
『ナギ』
胸の奥に、あの温かい声が響く。
「ブ、ブレードさん……」
呼び慣れない愛称を口にすると、聖剣――エルセリオンがかすかに脈動した。
『恐れるな。我が主。人は疑い、妬み、否定する。だが、それを受け止められる心を持つ者は稀だ』
「……僕なんか、ただ笑われてきただけで……」
ナギは膝の上で指を絡め、小さく震えた。
『それでも、誰かの笑顔を守りたいと願った。それが“女の心”だ。余は間違えぬ』
ナギはゆっくり顔を上げた。
濡れた黒髪が頬に張りついたまま、青い瞳だけが静かに光を宿していた。
議論の声がまだ響く城を抜け出し、ナギはひとり石畳の通りを歩いていた。
フードを目深にかぶっていても、華奢な体つきと白い首筋は隠しきれない。すれ違う人々が振り返り、ひそひそと噂を交わす。
「……あれが勇者姫様じゃないか?」
「ほんとに子供みたいだな」
「いや、女の子だろ……?」
その言葉に、ナギは思わず裾をぎゅっと握りしめる。
「ち、違う……僕は……」
否定の声は震え、かえって少女の呟きにしか聞こえなかった。
そんなときだった。
広場の隅でつまずき、泥に膝をついたナギに、柔らかな声がかけられた。
「大丈夫? 怪我してない?」
振り向いた先に立っていたのは、栗色の髪を肩で結んだ少女だった。
穏やかな瞳がナギを覗き込み、手には白い布――清潔なハンカチが握られている。
「ほら、顔についてる泥……拭いてあげる」
「あ、あの……僕は……」
頬に触れる指先があまりに優しくて、ナギは真っ赤になった。
長い睫毛が震え、青い瞳は潤み、息を呑むようにフィオナを見上げる。
「……ありがとう」
掠れた声でそう答えると、フィオナはにっこり微笑んだ。
「困ったときはお互いさま。ね?」
ナギの胸の奥で、静かに何かが温かく芽吹いていくのを感じた。
――それが、新しい仲間との最初の出会いだった。