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黒淵峡の巨兵

 黒淵峡は、まるで大地そのものが口を開けているかのようだった。

 切り立つ断崖は常に薄暗く、昼でさえ陽の光が底まで届かない。谷底には紫がかった霧が漂い、鼻を突くような瘴気の匂いが流れてくる。


「……なんか、ここ、嫌な感じがする」

 僕は裾をぎゅっと握り、震える指先を隠すように胸元に押し当てた。


「気のせいじゃねぇな。ここは“生きてる谷”だ」

 ドランが唸り、肩に担いだ大剣を握り直す。


 リィナは険しい顔で霧を睨みつけた。

「空気が重すぎる……普通の魔物じゃない。結界そのものが歪んでる感じ」


「……ここに、魔族の幹部が待ってるの?」

 フィオナが小さな声で問う。彼女の祈りの手が震えているのを見て、僕の胸もざわついた。


「直接ではないだろう。だが――試練を仕掛けてくるはずだ」

 セレスの言葉は冷静だったが、瞳は鋭く光っている。


 そのとき、腰の聖剣が淡く輝き、ブレードさんの声が胸の奥に響いた。

『来るぞ、ナギ……谷の守り手だ』


 ゴゴゴ……と地響きが峡谷を揺らす。

 岩壁が崩れ落ち、霧を割って現れたのは――瘴気に包まれた巨人だった。


 全身は黒い岩と瘴気でできており、胸の奥で紫の光が脈打っている。

 両の目は赤く爛れ、こちらを見下ろしていた。


「な、なんだあれ……っ!」

 僕の喉が震える。細い肩がすくみ、裾を握る指先が強張った。


「――黒淵峡の巨兵。通行者を喰らう番人だ」

 セレスが低く呟いた瞬間、巨兵が咆哮を上げた。


 大地が震え、瘴気が一気に広がってくる。

 僕は聖剣を握りしめ、青い瞳を大きく見開いた。


「……っ、僕が……やるんだ!」


 黒淵峡の空気が震えた。

 巨兵の咆哮は、岩をも砕く衝撃となって谷に響き渡る。

 紫の瘴気が霧となって押し寄せ、視界を覆った。


「くそっ、耳が割れそうだ!」

 ドランが耳を押さえながらも、大剣を振り抜き霧を払いのける。


 巨兵の一歩は雷鳴のようで、大地が震え、崖の岩が崩れ落ちていった。

 そのたびに体が揺れ、僕は細い肩を震わせながら裾をぎゅっと握る。


「う、動きが……重いけど……で、でかい……!」

 青い瞳が怯えに揺れ、足が勝手に後ずさった。


「ナギ! 逃げるな!」

 リィナの声が飛ぶ。彼女は剣を構え、巨兵の足へ斬り込んだ。

 だが硬い岩のような表皮に弾かれ、火花が散っただけだった。


「だめ……傷一つついてない!」

 リィナが歯を食いしばる。


「光よ、癒しと守りを!」

 フィオナが祈りの言葉を紡ぎ、光の障壁を展開する。

 直後、巨兵の腕が振り下ろされ、障壁が砕け散った。

 光の破片が雪のように散り、僕の頬をかすめる。


「――っ!」

 息が詰まり、足がすくんだ。


 セレスは冷静に観察し、低く呟いた。

「やはり……勇者の聖剣以外では通じない。瘴気そのものが結界になっている」


『その通りだ、ナギ。お前が立たねば、この谷は飲み込まれる』

 ブレードさんの声が胸を震わせる。

『震えてもいい。だが剣を握れ!』


 僕は細い指で聖剣を握り直し、青い瞳を巨兵に向けた。

 長い睫毛が震え、声が裏返りそうになる。


「ぼ、僕が……やるしか……!」


 その瞬間、巨兵の胸に宿る紫の光が大きく脈打ち、

 瘴気の腕がうねるように伸び、僕へと襲いかかってきた。


 巨兵の瘴気の腕が、まるで生き物のようにうねりながら迫ってきた。

 紫の光が皮膚を焼くようで、僕は思わず裾をぎゅっと握り、細い肩をすくめる。


「ナギ!」

 ドランが飛び出し、大剣で腕を叩き落とそうとする。

 だが一撃は空を切り、瘴気が逆に彼の体をはじき飛ばした。


「ぐっ……おもっ……!」

 岩壁に背を叩きつけられ、彼が呻く。


「回復する!」

 フィオナが急ぎ祈りを紡ぎ、光の粒がドランの体を包む。

 だが彼女の額にも汗がにじんでいた。


「ナギ、しっかりしなさい!」

 リィナが叫び、僕の前に飛び込む。剣を振りかぶり、迫る瘴気を切り払う。

 けれど、その腕は切っても切っても再生し、じわじわと包囲してきた。


「……これは“瘴気そのもの”ね」

 セレスが冷静に呟き、詠唱の構えを取る。

「私の術では時間稼ぎが限界……勇者、あなたしか突破できない」


『その通りだ、ナギ!』

 ブレードさんの声が胸を貫くように響く。

『震えを恐れるな。震えは力だ。細い指で剣を握れ、その勇気こそが瘴気を断ち切る!』


「……っ」

 僕は唇を噛み、震える手で聖剣を高く掲げた。

 長い睫毛が揺れ、青い瞳に光が宿っていく。


「ぼ、僕なんか……って思ってたけど!」

 声が裏返りそうになりながらも、必死に叫んだ。

「でも……僕は逃げない! 僕は……勇者なんだ!」


 その瞬間、エルセリオンが脈動し、刀身から青白い光が迸った。

 瘴気の腕が触れるより早く、光が奔流となって広がる。


『解き放て――勇者の一閃ブレイヴ・レイ!』


 僕の叫びと共に、聖剣の光が峡谷全体を貫いた。

 瘴気が悲鳴のような音を立て、霧散していく。


 巨兵がたじろぎ、その胸の核がむき出しになった。

 紫の光が揺れ、ほんの一瞬――隙が生まれる。


 むき出しになった巨兵の胸核が、脈打つように紫の光を放つ。

 瘴気が渦を巻き、再び腕を再生させようとしていた。


「今だ、ナギ!」

 リィナが叫び、剣で瘴気の渦をはじき飛ばす。


「チャンスは一瞬だ! やれぇ!」

 ドランが大剣を構え、巨兵の足を押さえつける。


「守るよ!」

 フィオナが祈りを強め、僕の体を光で包む。


「……核の周囲、瘴気の循環が乱れている」

 セレスが冷静に告げる。

「勇者、今しかない」


 僕は細い指で聖剣を握りしめ、青い瞳を核へと定めた。

 裾をぎゅっと握る手を離し、声を震わせながらも叫ぶ。


「……僕は……僕なんかじゃない!」

 濡れた黒髪が揺れ、頬が赤く染まる。

「僕は――勇者ナギだぁぁぁ!」


 聖剣エルセリオンが輝きを増し、刀身から青白い閃光が奔る。

 まるで星の軌跡のような光が峡谷を裂き、巨兵の胸を貫いた。


 核が砕け、紫の瘴気が一瞬にして弾け飛ぶ。

 轟音と共に巨体が崩れ落ち、峡谷全体に静寂が訪れた。


「……や、やったのか……!?」

 ドランが大きく息をつき、剣を肩に担ぐ。


「ほんと……最後まで無茶するんだから」

 リィナは呆れ顔を見せつつも、その瞳には安堵の光が宿っていた。


「ナギ君……」

 フィオナが胸に手をあて、涙を浮かべて微笑む。

「あなたは本当に……勇者だよ」


「ふむ。震えながらも進んだか。理にかなっている」

 セレスは口元にわずかな笑みを浮かべた。


 胸の奥に、ブレードさんの声が響く。

『よくやった、ナギ。お前の勇気が、この地を救った』


「……ありがとう、ブレードさん」

 僕は息を弾ませながらも、青い瞳で空を見上げた。

 雪雲の切れ間から差し込む光が、まるで祝福のように降り注いでいた。


 ――こうして僕はまた一つ、勇者としての一歩を踏み出したのだった。


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