氷狼の試練
雪に覆われた街は、まるで白銀の箱庭のようだった。
氷で縁取られた門をくぐると、待っていた兵たちが槍を掲げ、声を揃えて叫ぶ。
「――勇者一行、ご到着!」
その声に呼応するように、雪国の人々が集まってきた。毛皮の外套をまとった老若男女が、こちらを見てざわめく。
細い肩が思わずすくみ、僕は裾をぎゅっと握った。
「……ほんとに、勇者なんて呼ばれるの、僕なんかでいいのかな」
「こら、またそれか!」
ドランが豪快に笑い、背中をどんと叩いてくる。
「もう慣れろよ。街中でそんな顔してたら、余計に注目されるぜ?」
「……でも」
小さく呟いた僕の声をかき消すように、朗々とした声が響いた。
「聖剣の勇者殿、ようこそ我ら雪国〈ノースラン〉へ!」
白い髭をたくわえた大柄の男が、両腕を広げて立っていた。
彼こそ、この街を治める豪族の長―― レオハルト だった。
鋭い眼光と逞しい体格。だがその声色は、歓待の響きをまとっている。
彼の合図で、門の奥からは雪花の刺繍を施した布が広げられ、一行を導くかのように敷かれた。
「どうか、我が館でお休みください。雪国の温もりをもって、遠来の客人を迎えましょうぞ」
人々の歓声が、雪の広場を揺らす。
僕は頬を赤らめ、青い瞳を伏せながらも小さく頷いた。
レオハルトの館は、外観の重厚さに似合わず中は温かな空気に包まれていた。
暖炉には巨大な丸太が燃え盛り、壁には白熊の毛皮や氷花を模した装飾が掛けられている。
長卓には豪勢な料理が並び、肉の香ばしい匂いと雪国特有の香草の匂いが混ざり合って漂っていた。
「おお……! こりゃ豪快だな!」
ドランは早くも目を輝かせ、大皿の骨付き肉を手に取った。
リィナは呆れたように腕を組んでいたが、その頬もほんのり緩んでいる。
「いただきます……」
フィオナは静かに祈りを捧げ、雪国の人々の温かい笑顔に微笑み返した。
僕はと言えば――。
細い指で杯を持ちながらも、視線をさまよわせていた。
こんなに多くの人に歓迎されるなんて、どうしても落ち着かない。
裾をぎゅっと握りしめ、長い睫毛がかすかに震える。
「……勇者殿、どうか気を張らずに」
レオハルトが豪快に笑い、杯を掲げる。
「この国では勇者は神話の客人だ。誇りを持っていい。だが――」
その言葉を遮るように、別の声が響いた。
高く澄んだ声。それでいて、氷のような冷たさを帯びていた。
「誇りを持つのは結構ですわ。ただ……本当に、この方が“勇者”にふさわしいのかしら?」
場が静まり返る。
扉口に立っていたのは、雪のように白いドレスを纏った少女だった。
長い銀髪が背に流れ、氷の宝石を思わせる瞳がまっすぐ僕を射抜く。
「……ユリシア」
レオハルトが眉をひそめた。
「無礼を言うな。この方こそ聖剣に選ばれた――」
「ええ、聖剣が選んだ。それはわかっています」
ユリシアは静かに歩み寄り、僕の前で立ち止まった。
青い瞳と氷の瞳が交差する。
彼女の美貌に息をのむ者もいたが、その言葉は刃のように鋭かった。
「――ですが、民を導く勇者が、そんな震える肩で務まるのかしら?」
胸の奥に、鋭い棘が突き刺さるような痛みが走った。
裾を握る手が強張り、頬が赤く染まっていく。
胸を射抜くようなユリシアの言葉に、僕は何も返せなかった。
喉が詰まり、青い瞳が揺れる。長い睫毛がかすかに震え、裾をぎゅっと握りしめる。
「……っ」
静まり返った広間に、暖炉の爆ぜる音だけが響いた。
その沈黙を破ったのは――刀身に宿る低い声だった。
『気にするな、ナギ。お前の震えは弱さではない。責任を知る者だけが抱く、勇気の証だ』
ブレードさんの声が胸の奥に響き、刀身がわずかに脈動する。
その温もりに、心が支えられるのを感じた。
「……僕は」
小さな声で言葉を絞り出す。
「僕は、確かに震えてる。怖いし、不安で……自分が勇者なんて信じられない」
広間の人々がざわめいた。ユリシアも瞳を細め、冷たさを隠そうとしない。
「だけど……僕は逃げない」
細い指で聖剣を握り直し、胸に掲げる。
「僕を信じてくれる仲間がいて、守りたい人たちがいる。だから、どんなに震えても前に進む」
その言葉に、ドランが豪快に笑い声をあげた。
「そうだ! 震えてても前に進むのが勇者だろ!」
「ふん……弱さを認めるなんて、あんたらしいわね」
リィナは呆れ顔をしながらも、どこか安心したように口元を緩める。
「ナギは……本当に勇者だよ」
フィオナが静かに微笑み、手を合わせて祈りを捧げる。
「理にかなっているな」
セレスは淡々と頷きつつ、冷静に言葉を添える。
「震えを隠す者より、正直に認める者の方が信頼できる」
ユリシアはその光景を見て、ほんの一瞬だけ瞳を揺らした。
けれどすぐに冷たい微笑みを浮かべる。
「……なるほど。少しは言葉を返せるようね」
踵を返し、背を向ける。
「ならば、明日。あなたが勇者にふさわしいかどうか――試させてもらいますわ」
そう告げて、氷の姫は広間を去っていった。
残された僕は深く息を吐き、濡れた黒髪を払いながら仲間たちの方を見た。
胸の奥にはまだ震えが残っていたけれど――ブレードさんの声と、仲間たちの視線がその不安を押し返してくれていた。
翌朝。
雪に閉ざされた白銀の谷に、澄んだ風が吹き抜けた。
僕たちはユリシアに導かれ、氷晶の祭壇と呼ばれる場所へと向かっていた。
「ここに、古より棲まう氷狼が眠っている」
ユリシアは冷たい瞳を細める。
「それを鎮められれば、あなたが本物の勇者であると認めましょう」
周囲の兵や民たちがざわめいた。
「氷狼は村を凍らせる災厄だぞ……」
「こんな子供にできるのか……」
その声が耳に突き刺さり、裾をぎゅっと握る手が震える。
けれど、僕の背には仲間たちの視線があった。
「気にすんな。お前ならやれる!」
ドランが背中を叩く。
「……あんたが勇者じゃなかったら、この国は誰が救うのよ」
リィナは剣を抜き、肩を並べてくれる。
「ナギ、大丈夫。私が回復するから」
フィオナが小さく微笑み、胸に祈りを込める。
「氷狼の結界は不完全だ。隙を突けば倒せる」
セレスが冷静に告げる。
そして、胸の奥に響く声。
『怯むな、ナギ。お前の震えは、力に変わる』
「……行こう、ブレードさん」
聖剣エルセリオンを細い指で握りしめ、青い瞳を前へと向ける。
氷晶の祭壇の中央。
凍りついた地面が音を立てて割れ、巨大な白い影が姿を現した。
蒼い瞳をぎらつかせる氷狼――吐き出す息は、瞬く間に空気を凍らせる。
「……っ!」
震える声が漏れたが、僕は一歩前へ踏み出す。
裾を握る指を放ち、剣を掲げる。
「僕は……僕なんか、なんてもう言わない! 僕は勇者だ!」
その瞬間、ブレードさんがまばゆい光を放った。
雪原を照らす閃光と共に、氷狼の咆哮が響き渡る――。




