禁呪決戦
旧砦の最奥――そこには、人の手が長らく届かなかった宝物庫が広がっていた。
崩れ落ちた石の天井から、冷たい月光が細く差し込み、埃と瘴気を銀色に染める。
壁一面に並ぶ古代の棺や祭具、その中心に鎮座する祭壇には、黒ずんだ刃を持つ一本の剣が突き立てられていた。
「……これが、禁呪の剣……」
僕は細い指で裾をぎゅっと握りしめた。胸の奥を這い回るような重苦しい気配に、青い瞳がわずかに揺れる。
だがその刹那、影が走った。
「ははは……これで俺は、すべてを取り戻す!」
クライドだった。乱れた金髪を振り乱し、狂気に濡れた青い瞳で剣をつかむ。
指先に触れた瞬間、黒い稲光が弾け、宝物庫全体が悲鳴を上げた。
「やめろ! それは――!」
セレスの制止も遅かった。
クライドは黒剣を引き抜き、刃から漏れる邪悪な気配に身を震わせている。
「見ろ! これが俺の力だ! 聖剣なんぞに選ばれずとも、俺は勇者だ!」
その叫びと同時に、黒剣が唸りを上げ、周囲の瓦礫が浮き上がる。瘴気が渦を巻き、壁に刻まれた古代紋章がひとつ、またひとつと砕け散った。
『ナギ、油断するな。その剣は命を喰らう。だが……決して恐れるな』
ブレードさん――エルセリオンの声が、胸の奥に温かく響く。
僕は小さく頷き、濡れた黒髪を払いのけると、細い腕で聖剣を掲げた。
「……僕なんかでも……止めてみせる!」
かすかな震えを隠せない声。それでも青い瞳は、確かに前を見据えていた。
黒剣を構えるクライドと、聖剣を抱く僕。
宝物庫の静寂は、いまにも破裂しそうな緊張で満ちていた。
次の瞬間、黒剣が唸りを上げた。
クライドが振り下ろすたび、瘴気が弾け、石畳が抉れ、棺が砕け散る。
「はははっ! 見ろ、この力を! 聖剣など不要! 俺こそ真の勇者だ!」
暴風のような斬撃に押し込まれ、僕は思わず裾をぎゅっと握る。
華奢な体が後退し、濡れた黒髪が頬に張りつく。
細い肩が震え、青い瞳が刹那に揺らいだ。
「ナギ!」
リィナの叫びに、ドランも剣を構えて駆け出そうとする。
だがセレスが低く制止した。
「待て。……これは聖剣の選択だ」
黒剣の一撃が振り下ろされる。
その瞬間、僕の手にある聖剣エルセリオンが淡く脈動した。
『怯えるな、ナギ。お前の弱さすら受け入れるのが、我の力だ』
刀身が眩く光り、反射的に僕の腕を導く。
華奢な指先で握られた聖剣が、信じられないほど自然に振り抜かれた。
――カァァンッ!!
雷鳴のような音が響き、黒剣は吹き飛ばされた。
クライドの体がたたらを踏み、石畳を削りながら後退する。
「な、なにっ……俺の剣を、弾き返しただと……!?」
エルセリオンの刀身は、宝物庫の闇を切り裂くように光を放っていた。
その輝きは剣だけではなく、僕の細い肩にも宿る。
「……僕なんかでも……できるんだ」
青い瞳に涙が滲みながら、声は確かに強くなっていた。
群れをなす瘴気がエルセリオンの光に焼かれ、後退していく。
宝物庫の空気がわずかに澄み、仲間たちが息を呑んだ。
『見せてやれ、ナギ。これが聖剣の真価だ』
ブレードさんの声が響く。
僕は聖剣を胸に抱き、細い指にぎゅっと力を込めた。
次の瞬間――エルセリオンの光が、形を変えて溢れ出した。
光は一条の奔流となり、宝物庫の闇を裂いた。
刀身から解き放たれたそれは、ただの斬撃ではなかった。
エルセリオンの権能――「真実の審判」。
黒剣を握るクライドの全身が震える。
刃を構えても、瘴気がはじかれ、押し戻されていく。
「ば、馬鹿な……! 俺の剣は、禁呪を喰らったはず……なのに!」
エルセリオンの光が波紋のように広がり、空間を満たす。
それに触れた者の心は偽りを隠せなくなる。
群衆はいない。だが仲間たちには、確かに見えていた。
クライドの背に渦巻くもの――嫉妬、恐怖、執着。
黒剣の力すら、虚飾でしかないと。
『聖剣は嘘を拒む。お前の“勇者”は虚妄に過ぎぬ』
ブレードさんの声が、静かに鳴り響いた。
「う、うるさい……黙れ!」
クライドが黒剣を振り下ろす。
だが刃が触れるより早く、僕の腕が勝手に動いた。
「……お願い、守って……!」
華奢な肩が震え、細い指が柄を握りしめる。
その姿は少女の祈りにも似ていた。
――ギィィィンッ!!
火花と共に黒剣が砕け散った。
禁呪の瘴気が悲鳴をあげ、砦全体を震わせながら霧散していく。
「な……なに……だと……!」
クライドの膝が崩れ、両手は虚空を掻くだけ。
彼の眼に映るのは、自分を拒んだ世界の真実だった。
僕はエルセリオンを掲げ、震える声で告げた。
「二度と……僕たちの前に現れないで」
その言葉は剣の光に重なり、宝物庫の奥へと反響した。
「殺せぇ! 殺せぇぇぇ!!」
クライドが喚く。血走った目で、狂気の声を張り上げる。
けれど僕たちはもう、彼を見ていなかった。
フィオナが静かに祈りを捧げ、リィナが剣を収め、ドランは鼻を鳴らした。
セレスが冷たい瞳で一言だけ告げる。
「……哀れだな」
その瞬間、砦に満ちていた瘴気は完全に消え失せた。
砦から戻った僕たちを待っていたのは、沈黙ではなく喧騒だった。
広場に集まった民衆、駆けつけた兵士たち、そして王の使者。
皆が口々に叫ぶ。
「聖剣が……瘴気を祓った!」
「本物の勇者だ!」
裾をぎゅっと握る僕の指が震え、青い瞳が光を映す。
濡れた黒髪が頬に張りつき、細い肩がかすかに揺れた。
――けれど、その震えはもう恐怖だけのものじゃない。
人々の前で、エルセリオンが淡く光る。
『誇れ、ナギ。だが奢るな。これは始まりにすぎぬ』
ブレードさんの声に、小さくうなずいた。
その時、兵士たちに引き立てられた影が現れる。
鎖に繋がれたクライドとその仲間たち――リディア、セリオス、そしてガルド。
クライドはなおも叫んでいた。
「離せ! 俺が勇者だ! 聖剣も、民も、全部俺のものだァァ!」
金髪を乱し、血走った目で喚く姿は、かつての栄光の欠片もなかった。
「黙れ、裏切り者!」
「禁呪に手を出すなど……死刑でも足りぬ!」
群衆の怒号が飛ぶ。
リディアは涙に滲んだ声で「違うの!」と叫んだが、誰も聞かなかった。
セリオスの理屈も、もう誰の耳にも届かない。
ただガルドだけが、俯いたまま沈黙していた。
王の使者が高らかに告げる。
「偽勇者クライド一行、その罪により王の名において拘束する!」
鎖が引かれ、彼らは牢獄へと連行されていく。
クライドの「殺せぇ! 殺せぇ!」という絶叫は、誰の心にも届かなかった。
代わりに広場を満たしたのは、民衆の声だった。
「勇者ナギ万歳!」
「聖剣の勇者だ!」
「新しい時代が始まる!」
歓声が押し寄せ、胸が熱くなる。
頬が赤くなり、涙がこぼれそうになった。
裾を握りしめた細い指はまだ震えていたけれど、今は確かに前を向いている。
「……僕なんかでも、みんなを守れるんだね」
小さな呟きは、聖剣の光と重なり、空へと溶けていった。




