旧砦の闇へ
北へ向かう街道は、人影もまばらで寂れていた。
冬を思わせる冷たい風が草原を渡り、僕の外套を揺らす。細い肩が震え、思わず裾をぎゅっと握る。
「……僕なんかで、本当に大丈夫なのかな」
ぽつりと漏れた声は、乾いた風にさらわれて消えていった。
「おいおい、またそれかよ!」
ドランが大きな背中を振り向け、豪快に笑った。
「聖剣が選んだんだ。お前が迷ったら剣だって困るだろ?」
「ほんと、いい加減にしてほしいわ」
リィナが腕を組んでため息をつく。
「王に正式に勇者だと認められたのに、“僕なんか”って……弱気すぎる」
けれどその目は、どこか優しさを隠そうとしているみたいだった。
「弱気になるのは当然よ」
フィオナがそっと僕の手を握り、穏やかに微笑む。
「だって人の命がかかってるんだもの。でも……だからこそ、あなたが選ばれたんだよ」
セレスは冷静に前を見据え、淡々と告げる。
「王都に漂っていた噂はすでに北辺まで届いている。偽勇者の失墜も、聖剣の勇者の誕生も……全てな」
僕は唇を噛みしめ、細い指で聖剣エルセリオンを握り直した。
その刀身がわずかに脈動し、胸の奥に声が響く。
『恐れるな、ナギ。道はお前と共にある。だが試練はこれからだ』
「……うん。わかってる」
頬にかかる黒髪を払い、青い瞳を前へと向ける。
やがて、草原の果てに黒ずんだ影が見えてきた。
崩れかけた石造りの砦――旧砦地区が、静かに僕たちを待ち構えていた。
荒野の先にそびえる旧砦は、まるで息絶えた巨人の亡骸のようだった。
崩れかけた石壁には蔦が絡み、尖塔の一部は既に落ち、瓦礫が無造作に散らばっている。
それなのに、近づくほど胸が締め付けられるような圧迫感があった。
「……空気が重い」
思わず裾を握る指に力がこもる。青い瞳が揺れ、呼吸も浅くなっていく。
「結界の残滓だな」
セレスが目を細め、淡々と告げた。
「禁呪を封じたとされる結界の一部が、今もまだ働いている。だが……かなり綻びているな」
「うう、ぞわぞわする……」
フィオナが胸に手を当て、小さく眉を寄せる。
「ただの瘴気じゃない。何かが封じ込められてて、暴れようとしてる」
ドランは肩をいからせて剣を構える。
「上等だ。どんな呪いでもぶっ壊してやる!」
「無鉄砲すぎ」
リィナが呆れながらも、剣を抜いて背を預けてくれる。
「油断すれば一瞬で飲まれるわよ。これはただの魔物じゃない」
砦の入口に立ったとき、冷たい風が吹き抜け、黒髪が頬に張りついた。
震える肩を抱きしめるようにして、僕は聖剣エルセリオンを胸に抱く。
『感じるか、ナギ。奥に眠る“それ”が目覚めかけている。封印は長くはもたぬ』
ブレードさんの声が低く響き、刀身がかすかに光を帯びた。
「……やっぱり、僕が……止めなくちゃ」
小さく震える声が、石壁に反響して消えた。
砦の内部は、すでに息をひそめるような静寂に包まれていた。
その沈黙が、次に来る災厄を予告しているかのように。
同じ頃、旧砦へと続く荒野の別の道を、四つの影が進んでいた。
先頭に立つのは、なおも蒼白な顔をしたクライド。乱れた金髪をかき上げながら、歯ぎしりを繰り返している。
「……あのガキが勇者だと? 聖剣に選ばれたからって……認めるものか……!」
声は掠れていたが、そこには狂気が滲んでいた。
隣を歩くリディアが必死に言葉を重ねる。
「そうですわ! ナギなんて偽物です! 聖剣に惑わされた民衆が愚かなだけ!」
だがその瞳は焦りに揺れていた。
セリオスは冷静さを装い、眼鏡を押し上げる。
「……封印の結界は崩壊しかけている。禁呪の片鱗でも手に入れれば、聖剣の力を凌駕できるかもしれん」
その言葉に、クライドの目がぎらりと光る。
「そうだ……俺がその力を奪う! 聖剣も、勇者の名も……俺のものだ!」
拳を握りしめ、荒野に咆哮が響く。
一方、後ろを歩くガルドは黙り込んでいた。
大きな拳が震え、視線は地面に落ちたまま。
脳裏には、濡れた黒髪を頬に貼りつかせ、細い指で聖剣を掲げていた少年――ナギの姿がちらついていた。
「……本当に、これでいいのか……?」
誰にも届かぬ声が、荒野の風にかき消された。
やがて旧砦が見え始める。
そこから漂う圧迫感に、四人の影が静かに飲み込まれていった。
旧砦の入口に立った瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
石壁の隙間から吹き抜ける風は冷たく、まるで呻き声のように耳を掠める。
裾をぎゅっと握る指が震え、喉が乾く。
「……ここだ」
セレスが低く呟き、瓦礫に視線を這わせる。
「封印の中心は奥だ。崩壊が進めば、この砦全体が吹き飛ぶ」
「冗談じゃねぇ!」
ドランが剣を肩に担ぎ、口角を吊り上げる。
「だったら俺たちで止めるだけだろ!」
「相変わらず脳筋ね」
リィナが舌打ちしつつも、腰の剣を抜いて立ち位置を整える。
「でも……あんたのそういう単純さ、少しだけ頼もしいわ」
「私は……ただ、祈るよ」
フィオナが胸に手を当て、真剣な眼差しで僕を見つめる。
「ナギ、怖いなら怖いって言って。私たちが一緒にいるから」
僕は小さく首を横に振った。
濡れた黒髪が頬に張りつき、青い瞳が光を反射する。
「……怖いよ。でも、逃げない」
細い指で聖剣エルセリオンを掲げ、胸に抱きしめる。
その瞬間、刀身が淡く光を放ち、声が響いた。
『ナギ……気を抜くな。奥に眠る“禁呪”が、目覚めようとしている』
砦の奥から、低い呻き声のような振動が伝わってくる。
瓦礫の間に落ちた影が揺れ、まるで何かが蠢いているようだった。
「僕が……止める」
小さな声で誓い、足を一歩踏み出す。
仲間たちもすぐに続き、崩れかけた砦の暗闇へと足を踏み入れた。
その先に待つものが、彼らの運命を大きく変えていくとも知らずに――。




