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神殿の石段を降りるたび、周囲の喧騒が遠ざかり、没薬の香りが薄れていく。
代わりに胸の奥に残ったのは、妙に重く澱んだ空気だった。
「あの…アリシア様…」
気まずそうにセシルが口を開いた。
横を歩くアリシアの横顔は、感情を押し隠すように無表情だ。
けれど指先は、袖の縁を固く握りしめている。
ほんの一瞬、唇が何かを言いかけたように動いたが、音にはならず、ただ閉ざされたままだった。
その様子に、アウラも不安そうにセシルを見つめた。
「…そのまま私の部屋へいらっしゃい」
固く噤んだ口を開き、アリシアは僅かに微笑んだ。
王宮の奥まった回廊を抜け、自室に戻る。
白い衣の裾を整えながら腰を下ろしたアリシアは、促すようにセシルを手招きした。
アウラが静かに水の入った器を差し出す。
アリシアはそれを受け取り、唇を湿らせただけで置いた。
「……さっきのことは、気にしないで」
視線を逸らしたまま、淡々と告げる。
「しかし……」とセシルが言いかけると、アウラが軽く首を横に振った。
「セシル、これが今の宮廷なのです。第二王妃――ネフェルティナ様は宰相の娘。国中に影響力を持つご実家の後ろ盾がございます」
「……だから、アリシア様は…」
「ええ。異国から嫁いだ王妃が正面から争えば、勝ち目は薄い」
アウラの声には微かな悔しさが滲んでいた。
「それでもアリシア様は、引き下がることで立場を守っておられるのです」
アリシアは器を置き、わずかに微笑んだ。
「アウラ、余計なことは言わないの。……いつものことだから」
そしてふと、指輪に触れる。
細工の施された銀の指輪――アストリア王家の紋章が刻まれている。
「アストリアは交易で栄えた国。東西を結ぶ港と陸路を押さえているからこそ、豊かでいられた」
指先で指輪を転がしながら、静かに続ける。
「けれど……軍事力は弱い。北のケルマーン帝国からの圧力もあって、我が国はエジプトの軍を後ろ盾にする道を選んだ。
エジプトは私たちの交易路と港を手に入れ、私たちは軍事の庇護を得る――それが表向きの理由」
セシルの表情がわずかに険しくなる。
「裏の理由は、もっと生々しいわ」
アリシアはかすかに笑みを浮かべ、影を落とす。
「宰相トフメスは、アストリアを完全に従属させたいのよ。交易の主導権を奪い、国を形だけ残して中身を空にする。それが彼の狙い。…婚姻を結んだ時、私はそれに気づけなかった」
そして、低く、決意の色を宿した声で言う。
「守るだけでは足りない。――私はこの国で力を得なければならない。
それが、アストリアを……私の故郷を……飲み込ませない唯一の方法だから」
外からは祭りの準備を告げる楽の音がかすかに響いていた。
けれど、それは遠く、重苦しい沈黙の中に沈んでいった。




