2
2
扉が静かに閉じる。
背後で灯りの炎が、パチパチと小さくはぜた。
セシルは歩みを止め、薄暗い回廊にひとり、立ち尽くす。
誰もいない静けさのなかで、振り返った先には、さきほどまで居た部屋の扉があった。
その奥にいる女――アリシア。
(……あの女が、“第一王妃”)
噂どおりの美貌。
けれど、それ以上にあの目が、気に食わなかった。
心の奥を覗くような眼差し。
強さと脆さ、そのどちらも孕んでいるような、あの光。
(私たちの国を裏切り、滅ぼした側の人間が、どうして、あんな目をする…)
胸の奥に、静かな怒りがゆっくりと広がる。
冷たく、重く、だが確かな熱を持って。
……だが、アシュマールの名を出されたとき。
思わず揺れたのは、自分のほうだった。
"血の谷"と呼ばれた美しい赤い谷。懐かしい故郷。
セシルは小さく息を吐いた。
あの戦ですべてを失った。
囚われ、奴隷としての刻印を押され売られた。
“本当の自分の名”すら、忘れかけていた。
(それでも……私は、決して忘れていない)
装飾のない石壁に、そっと視線を落とす。
灰にくすんだその色に、血に染まったかつての風景が重なる。
握った手のひら。
そこに残る、剣を握った痕――小さく浅い、しかし決して消えない傷。
それが、今の自分を支えていた。
セシルはゆっくりと背を向け、再び歩き出す。
夜の奥へ。
静かな足音が、石の回廊に溶け、やがて消えていった。