表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰よりも深く私を憎んで  作者: 紫苑
第一章 異国の王妃
2/8

1.夜の居室にて


1.夜の居室にて


広間を出ると、冷たい石の廊下を夜風がすり抜け、燭台の炎が揺れた。

アリシアは背筋を伸ばしたまま歩く。その後ろに続く足音は一つ――新しく引き取った銀髪の奴隷、セシルのものだ。


その気配は静かで、妙に重い。

奴隷服の布擦れの音すら、夜の空気に溶けていく。


王妃の居室の扉が開かれると、温かな光と花香が迎えた。

侍女たちが一斉に頭を垂れ、微笑を浮かべながらも、その目には緊張の膜が張っている。


「おかえりなさいませ、アリシア様」


先頭に立つ女官長・ハトシェプが、鋭い視線をセシルへ向けた。

長身の女の眉根が僅かに寄る。


「この者は……?」


「新しい侍女よ」


アリシアは飾り気のない声で告げた。


「……アリシア様、このような者を直々にお召し上げになるのは、前例がございません」


控えていた若い侍女たちが、視線を交わし、唇の端に嫌な笑みを刻む。

だがその中心に立つセシルは無言のまま。

整いすぎた顔立ちは、見る者の呼吸を奪うほどだった。


「前例なんて必要ないわ。私が決めたことよ」


揺れる燭火が、アリシアのエメラルドの瞳を照らした。


「ここの侍女は全て、家柄が保証されている者ばかりでございます。身元も定かではない奴隷をお側に置かれるなど……」


セシルが一歩も動かぬまま視線を伏せる。


「もういいわ。今日は皆、下がりなさい。後のことはアウラに任せるから」


アリシアの一言が、居室に張り詰めていた緊張を断ち切った。

ハトシェプは渋々ながらも深く頭を垂れ、他の侍女たちを視線で促す。


「アリシア様、おかえりなさいませ」


柔らかな声に、アリシアは振り返る。

そこには栗色の髪を結い上げた侍女のアウラが、変わらぬ優しい微笑を湛えて立っていた。


「アウラ…今日は少し疲れたわ」


「この者をお側に置かれるのですか?」


「ええ。意地の悪い貴族に虐げられていたところを拾ってきたのよ。ふふ、お気に入りを奪われたあの男の顔が忘れられないわ」


「後で何を言われても知りませんよ」


アウラは困ったように眉を寄せた。


「侍女たちがまた陰口を言うでしょうね。"異国の姫"が気まぐれで奴隷を拾ってきたって」


アリシアは、どこか遠くを見るように呟いた。


その場を静かに見守っていたセシルが一歩下がる。

それを追うように、アリシアが声をかけた。


「セシル」


銀髪の娘が顔を上げる。

ルビーのような瞳とエメラルドの瞳が交差した瞬間、空気がぴたりと張り詰めた。


「……あなた、アシュマールの出なのね?」


「はい」


短く、それでいて重みのある声。

アリシアは香油壺の蓋を指でなぞりながら、静かに語る。


「昔、幼い頃によく訪れたわ。お兄様と一緒に…アシュマール産のルビーは格別に綺麗で有名ね」


アリシアがそっと蓋を閉じる。

柔らかな香りが夜気に溶けて広がった。


「美しい国だったわ…あの赤い谷も、石の輝きも。けれど──あの国は私からすべてを奪った」


声の調子がわずかに沈む。


「…お兄様も。アストリアの未来も」


セシルが無言で俯いた。


「アシュマールがアストリアを裏切らなければ、あの戦は──」


言いかけて、アリシアは言葉を断ち切る。


「ごめんなさい。あなたに言っても仕方ないことだったわね……もう休みなさい」


「承知しました、アリシア様」


静かに一礼したセシルが、扉の向こうへと姿を消す。

ほんの一瞬、アリシアを振り返り赤い視線を残しながら。


「アウラ、お願い」


アウラが丁寧にドレスの留め具を外し、アリシアを夜着へと着替えさせる。

夜風が窓から入り、髪と薄衣を揺らした。


やがて帳が降ろされ、再び静寂が部屋を満たす。

アリシアは天蓋の絹を見上げ、思考の奥へ沈んでいった。


このエジプトにアリシアの居場所はなかった。


異国の第一王妃として迎えられてから、どれほどの月日が経ったのだろう。

彼女は“アストリアの王女”であり、“交易の鍵を握る政略の証”であり、

“この国の民ではない存在”だった。


微笑の奥にある軽蔑。

敬語の裏にある壁。


――兄を失い、国を離れ、ここで仮面のような笑みを貼りつけて生きている。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ