1.夜の居室にて
1.夜の居室にて
広間を出ると、冷たい石の廊下を夜風がすり抜け、燭台の炎が揺れた。
アリシアは背筋を伸ばしたまま歩く。その後ろに続く足音は一つ――新しく引き取った銀髪の奴隷、セシルのものだ。
その気配は静かで、妙に重い。
奴隷服の布擦れの音すら、夜の空気に溶けていく。
王妃の居室の扉が開かれると、温かな光と花香が迎えた。
侍女たちが一斉に頭を垂れ、微笑を浮かべながらも、その目には緊張の膜が張っている。
「おかえりなさいませ、アリシア様」
先頭に立つ女官長・ハトシェプが、鋭い視線をセシルへ向けた。
長身の女の眉根が僅かに寄る。
「この者は……?」
「新しい侍女よ」
アリシアは飾り気のない声で告げた。
「……アリシア様、このような者を直々にお召し上げになるのは、前例がございません」
控えていた若い侍女たちが、視線を交わし、唇の端に嫌な笑みを刻む。
だがその中心に立つセシルは無言のまま。
整いすぎた顔立ちは、見る者の呼吸を奪うほどだった。
「前例なんて必要ないわ。私が決めたことよ」
揺れる燭火が、アリシアのエメラルドの瞳を照らした。
「ここの侍女は全て、家柄が保証されている者ばかりでございます。身元も定かではない奴隷をお側に置かれるなど……」
セシルが一歩も動かぬまま視線を伏せる。
「もういいわ。今日は皆、下がりなさい。後のことはアウラに任せるから」
アリシアの一言が、居室に張り詰めていた緊張を断ち切った。
ハトシェプは渋々ながらも深く頭を垂れ、他の侍女たちを視線で促す。
「アリシア様、おかえりなさいませ」
柔らかな声に、アリシアは振り返る。
そこには栗色の髪を結い上げた侍女のアウラが、変わらぬ優しい微笑を湛えて立っていた。
「アウラ…今日は少し疲れたわ」
「この者をお側に置かれるのですか?」
「ええ。意地の悪い貴族に虐げられていたところを拾ってきたのよ。ふふ、お気に入りを奪われたあの男の顔が忘れられないわ」
「後で何を言われても知りませんよ」
アウラは困ったように眉を寄せた。
「侍女たちがまた陰口を言うでしょうね。"異国の姫"が気まぐれで奴隷を拾ってきたって」
アリシアは、どこか遠くを見るように呟いた。
その場を静かに見守っていたセシルが一歩下がる。
それを追うように、アリシアが声をかけた。
「セシル」
銀髪の娘が顔を上げる。
ルビーのような瞳とエメラルドの瞳が交差した瞬間、空気がぴたりと張り詰めた。
「……あなた、アシュマールの出なのね?」
「はい」
短く、それでいて重みのある声。
アリシアは香油壺の蓋を指でなぞりながら、静かに語る。
「昔、幼い頃によく訪れたわ。お兄様と一緒に…アシュマール産のルビーは格別に綺麗で有名ね」
アリシアがそっと蓋を閉じる。
柔らかな香りが夜気に溶けて広がった。
「美しい国だったわ…あの赤い谷も、石の輝きも。けれど──あの国は私からすべてを奪った」
声の調子がわずかに沈む。
「…お兄様も。アストリアの未来も」
セシルが無言で俯いた。
「アシュマールがアストリアを裏切らなければ、あの戦は──」
言いかけて、アリシアは言葉を断ち切る。
「ごめんなさい。あなたに言っても仕方ないことだったわね……もう休みなさい」
「承知しました、アリシア様」
静かに一礼したセシルが、扉の向こうへと姿を消す。
ほんの一瞬、アリシアを振り返り赤い視線を残しながら。
「アウラ、お願い」
アウラが丁寧にドレスの留め具を外し、アリシアを夜着へと着替えさせる。
夜風が窓から入り、髪と薄衣を揺らした。
やがて帳が降ろされ、再び静寂が部屋を満たす。
アリシアは天蓋の絹を見上げ、思考の奥へ沈んでいった。
このエジプトにアリシアの居場所はなかった。
異国の第一王妃として迎えられてから、どれほどの月日が経ったのだろう。
彼女は“アストリアの王女”であり、“交易の鍵を握る政略の証”であり、
“この国の民ではない存在”だった。
微笑の奥にある軽蔑。
敬語の裏にある壁。
――兄を失い、国を離れ、ここで仮面のような笑みを貼りつけて生きている。