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こうして、豊穣の祭は幕を開けた。
夜明けごとに沐浴と祈りが繰り返され、昼には捧げ物が神殿に運ばれ、夜は炎と酒の匂いに包まれて宴が続いた。
香の煙は宮殿の壁にまで染みつき、歌と笛の音は幾日も絶えることがなかった。
そして――十日に及ぶ祭の終わりを告げる夜。
大広間には、灯火と香の煙が溢れていた。
数日にわたる祭儀を締めくくる宴の夜、王宮は外の広場にまで届く音楽と歓声に満たされていた。
ハープの弦が爪弾かれ、リュートの澄んだ調べが石の壁に反響する。
銅のシストラムが細やかに揺れ、重ねられる音が熱を孕みながら空を震わせた。
アリシアは王の隣に座し、杯を掲げながら笑みを整えていた。
けれど喉を湿らせた葡萄酒の甘さも、舌の上で重く沈むだけで、少しも心を解きほぐさなかった。
王の傍らに控えていた宰相トフメスが、杯を掲げて声を張った。
「我らが友好国アストリアより、大使殿がはるばるお越しくださった。
交易の道は遠くとも、心は常に我らと共にある。――そうであろう?」
「これはこれは…宰相トフメス殿…まさにその通りでございます。我が国の姫、今はエジプトの王妃のアリシア様がまさに友好の証でございます」
深く頭を垂れる大使バルカスはアストリアでは有力貴族の1人だった。
アリシアはアストリア大使達の懐かしい顔ぶれに胸が締め付けられるようだった。
ただ、その姿は誇りよりも従属の色を濃くしていた。
「偉大なるエジプトのファラオ、アメンカフ陛下に祝福を」
アメンカフは頷き、金の杯を掲げた。
「アストリアを歓迎する。アリシアよ、そなたの祖国の使者に盃を」
「アストリアとエジプトに永遠の繁栄を」
バルカスの言葉に皆が拍手を送った。
しかしアリシアの胸には重い影が広がった。
――父も弟も、遠い祖国も。
かつて交易で栄えたアストリアは、今やエジプトの庇護を必要とするほどに弱っている。
自分はその象徴として、ここに座っているに過ぎない。
杯を口に運びながら、アリシアは微笑みを絶やさなかったが指先はわずかに震えていた。
そして、アメンカフの側近サリフの傍らには1人の王子と2人の姫が宴に参加していた。
第一王子はまだ十にも満たぬ年頃の少年。
栗色の髪を結い、白布の衣を纏ったその姿は、亡き王妃イセトネフェルの忘れ形見であった。
「ウセルカフ」
アメンカフは王子を抱き上げた。
その姿に杯が一斉に掲げられる。
「未来のファラオに神に祝福を!」
広間の声は熱狂の渦となって広がった。
「父上、何をなさるのです…!」
「お前はこのエジプトの全てを手に入れるんだ。この景色をよく覚えておけ」
アリシアは視線を逸らすことができなかった。
――前王妃の子。
自分の存在を薄めてしまうほどに、揺るぎない正統。
胸の奥で、冷たいものと熱いものが絡み合い、呼吸が詰まる。
そのとき、ふと横に座るネフェルティナの仕草が目に入った。
彼女は微笑みを浮かべ、拍手を送っていた。
だが杯を持つ指先には力がこもり、青白いほどに爪が縁を押し込んでいた。
長い睫毛の影の下、燃えさかるような苛立ちがその瞳に宿る。
アリシアは目を伏せ、何事も見なかったかのように息を吐いた。
けれど胸の奥に残るざらつきは消えなかった。
音楽は再び高らかに響き、舞姫たちが舞を始める。
火のような歓声が宴を包み込む中、
アリシアの心だけが、冷えた泉に沈んでいくように揺れた。




