68.その末路
――自分はもう一度死ぬのかもしれない。
そんなことを、一瞬だけ考えた。
だがそんな思考は一瞬だけで終わり、覚悟を決めた黎華には、一切の体の負担が掛からなかった。
「……?」
ぎゅっと閉じていた瞳を、うっすらと開ける。
するとその向こうに広がっていたのは、鮮藍の髪色――鮮やかな青の髪だ。
天上の誰もが知る、美しい鸞の翼の色でもある。
「……ッ、月樹さま!!」
「待っておったぞ、この時を……!」
『……ッ、お前……っ、う、動けぬ……!?』
黎華の前に立ちはだかっていたのは、月樹であった。いつもの愛らしい少女の姿ではなく、美しい女性の姿であった。
彼女が低く言葉を放った直後、こちらに乗り移ろうとしていた狐から呻き声があがった。
長い影のようなものを伸ばしていたのだが、その端を掴む者がいたのだ。
――それは、麒麟である尹光馨だ。
酷く衰弱しているものの、個としての意識はしっかりとある。膝をついてはいるが、その右手はしっかりと狐の影を掴んでいた。
「……尹老師……」
「よく私を信じたな、夜辰。……だが、捨て身の覚悟は頂けぬ」
麒麟は落ち着いた口調でそう言った。
黎華はその声を初めて聴いたが、妙に懐かしいような響きであると感じてしまう。
そうして、剣を構えていた沈梓昊は、一番苦い表情をしていた。肩透かしを食らったような気分であるからだ。
「惚けておるなよ梓昊。早うこやつを斬らんか」
「母上、そんな飄々と……、――っ、あんた……」
月樹のいつもの口調で、皆が緊張感を失っていた。
そこまでが彼女の思惑でもあったのかもしれない。
月樹の足元に、赤い雫がぽたりと落ちるのを、沈梓昊は見た。そうして、またもや空気が一変する。
「……どうした、獬豸よ。早くせんか。……妾とて、そう長くは持たぬ」
そう言う月樹の胸には、狐の影――腕が刃のようにして突き刺さっていた。その刃をそこで食い止めるために月樹は己の右手でそれを握り締め、そこから血が滴っているのだ。
「月樹さま……っ」
「巫覡の姫よ。そなたの行動も褒められるものではないぞ。妾が手塩にかけてそなたの魂を吸い上げたこと、忘れてはおるまいな」
「それは、もちろんです……あなたのお力があったからこそ……!」
「うむ、それで良い。黎華姫よ、我が不逞の息子と末永く仲良くしておくれ」
『……っ、お主ら、我が見えぬのか。この体は……天狐・流喜のものぞ!』
「だからどうしたのじゃ。――妾は……オレは最初から知っていたし、あいつの為だからこそこうしてお前の目の前にいる。つまらない脅しなどは、最初から通用しない。オレらの流喜はもうすでにいないのだからな!」
『くぅ、……離せ……! お主らなど、この我が……!!』
――ドッ。
鈍い音が響いた。
黎華と隣にいた沈夜辰が、その光景に目を見開く。
「……そう、それでいい、沈梓昊」
「……ッ」
沈梓昊の剣は、一人の体を貫いていた。
否、それは一人ではなく、二人分の身体だ。
狐が影となってこちらに向かい、その一部を体で受け止めて引き付けた月樹ごと、剣は傾ける者を貫いたのだ。
『ア、ア、ァァ……ッ』
天を望んだ狐の女は、姿こそ天狐・流喜であったものの、すでに苦痛の表情を浮かべている。
影のような存在になりながらも、麒麟と鸞にその行動を抑え込まれては、やはり太刀打ちできなかったということか。
『なんという、呆気ない……我の、私の、この月日は……こんな容易く、馬鹿げた最後……っ、アァ、流喜、お前など愛さねば……!!』
「!」
女の本音が漏れる。
天狐であった夫の体を奪い、その能力のすべてさえを飲み込んでこの場にいる存在は、やはり根底には『愛情』があったのか。
そんなことを今更吐露されたところで、息子の沈夜辰にとってはどうでも良いことだった。
最初から両親の愛など皆無に等しかった。誰にも愛されなかったし、異質で異端だと言われ続けた彼にとっては、この結末は複雑でありながらも本望であろう。
「……結局、『僕』は一度も愛されなかったってことだ。お前も天狐の父も、互いに己を優先するのに精一杯だったみたいだね。この場に姫や梓昊……月樹さまが居なければ、お前は迷わず尹老師を捨てて僕を器にしたんだろう。本当に、浅はかで愚かな女だ……!」
「沈夜辰……」
声が震えていると気づき、黎華が彼を見上げれば、沈夜辰は泣いていた。
悔しさや寂しさ、名残惜しさなどもあるのかもしれない。
だが、そこにはかつて求めた愛への渇望などはすでになく、虚しさゆえであったのかもしれない。
「……梓昊、そなたに責を負わせてすまないな」
「ほんとにシャレにならないですよ、母上。そんな大師兄みたいな顔で笑われたら、俺の後味も悪すぎでしょう」
「はは、悪い悪い。本来のオレで終わろうと思っててな。……我が背の君、尹光馨……オレらがどこに行くかはわからんが、待っている……」
「……、そう待たせることはないであろう、月樹よ」
沈梓昊が突き立てた剣が、傾ける者と鸞を溶かしていく。
ぼろぼろと崩れるようにしてその容を崩して行く中で、月樹は自身の目の前にいる天狐・流喜であったものを抱きしめた。
「オレらはどこかで道を違えたのかもしれないな、流喜……今度こそ、三人で永遠に過ごせる場所にいくぞ」
『ア、ァ……、月樹……あなたという人は……』
そんな言葉を最後に、二人はその場から消えた。
遺体として残らなかったのは、沈梓昊の剣が所以しているのかもしれない。『傾ける者を斬れば、その形は残らずに世から消える』。それを沈梓昊自身も知っていたし、代々の獬豸も享受してきたのだ。
「……、だから俺の後は、誰にも継がせたくねぇんだよなァ……」
剣がだらりと落ちる。
それを辛うじて握っていた沈梓昊の独り言であった。
――そうして、彼らはもう一人を見送る事となる。
「尹老師……っ、扉の向こうに尹馨がいます。せめて、彼だけには……!」
「……沈夜辰よ。お前がそんな表情をするとはな。……私が眠っていた間に、随分と頼もしくなった……嬉しく思うぞ……」
「尹光馨さま……父君、……俺、いえ、わたくしは黎華です。……こんな、こんなことに、……お目覚めになれば、普通にお話出来るものと……!」
「分かっている。何も言うな……すまぬ、こんな醜態を晒したままで。……どうか、あれに最後まで、添ってやってくれ」
「……父君、ダメです! 逝かないで……っ、尹馨ッ!!」
倒れたまま動けなくなっていた麒麟を支えたのは、沈夜辰だった。
抱き起こしてはみたものの、生気はほぼなく、先ほどの足止めでその生命力すべてを使い果たしてしまったのだろう。
傍に黎華も駆け寄り、彼の手を取ったが、握り返す力さえ既に無い。
沈夜辰が慌てた様子で左手を扉に翳して、その波動で乱暴に扉を開けさせたが――
「……、あとは頼んだぞ、馨よ」
尹光馨は短い息を吐いた後、そう言い残して力尽きた。
ほぼ同時に尹馨が姿を見せたが、最後の言葉は受け取れただろうか。
「父上、母上……あなたたちは本当に……勝手な人ですね」
尹馨が静かな口調でそう言った。
そうして彼は、黎華を後ろから抱きしめつつ、妻が握ったままであった父の手の上に自分のそれを重ねて、ぎゅっと握ったのだった。




