67.世を傾ける者
――麒麟の寝床・鎮魂の間の扉が、再び開かれようとしていた。
「沈夜辰」
扉に力を込めたところで、聞きなれた声が背中にぶつけられる。
振り返らずともわかる、尹馨のそれであった。
「……遅いですよ、尹馨」
「俺たちを待たずに、その扉を開けるつもりだっただろう」
「いえ、決してそんなことは」
「…………」
沈夜辰は、にっこりと笑みを作り上げて尹馨を振り返る。
嘘の笑みであると誰もが分かっているが、敢えてそこには触れなかった。
「……再びこっちに来させて悪かったね、黎華姫」
「ううん……こんな俺の力でも役に立てるなら、いつでも動くよ」
「尹馨も……その、来てくれてありがとう」
沈夜辰のそんな言葉が、意外であった。
それでも尹馨は昔を懐かしむかのような瞳で受け止めて、こくりと頷いて見せる。
(大師兄の甘いところは全然変わんねぇな……まぁ、ある程度の先読みはしてるんだろうが)
沈梓昊が個人的な感情を胸の内で吐露する。
沈夜辰のことを疑っているわけではなく、以前にも言っていたように『個』としての好きか嫌いかの感情であった。
「黎華姫、君にはまた苦労をかけるね。こんな男のことは助けたくはないだろうけど……」
「――それ以上はダメだよ、沈夜辰。俺の妹の気持ちを卑下しないで」
「……っ」
沈夜辰の肩が震えた。
黎華の姿に、本来の『黎華姫』であった黎静の姿が重なったのだ。
――逃げることは許さないわよ、沈夜辰。
今でも痛烈に記憶に刻まれている、彼女の言葉だ。
死んでもいいと思っていたあの瞬間、彼女のその言葉で自分は救われた。
不思議なものだが、これぞ双子と言うべきか、目の前にいる黎華からも同様の気迫を感じられたのだ。
「うん……今のは軽率だったね。ごめん」
「!」
その謝罪の言葉に、尹馨は一瞬だけ目を丸くした。
彼も、一歩ずつ変わろうとしている。『自分などいつ死んでもいい』などと口にするような男であったのに、やはりこれは、黎家の巫覡の影響が強く反映されているのだろう。
沈夜辰の友として、実に喜ばしいことだ。
「夜辰、どうするつもりか?」
「……尹老師からアイツを引き離すつもりで入るけど……時間が掛かりすぎてるからね、アイツがどう動いてくるかわからないし、老師だってどうなるか……でも、取りあえずはアイツは実子である僕を狙ってくる。そして必ず、僕の意識を潰してこの体を乗っ取ろうとするはずだ、だから僕は、まんまと乗っ取られたフリをする」
「なるほど」
「間の中に入るのは僕と姫……そして獬豸のみのほうがいいと思うよ。尹馨はこの場で控えていてほしい」
「……大勢で押し入ったところで、父上も煩がるかもしれないしな」
――一抹の不安は、この場にいる誰しもが感じていた。
麒麟が何も策を講じているはずもない。意識もなく、寝たきりとなった今でも、その体に天狐を捉えたまま、抗っているのかもしれない。
(父君、ご無事だといいけど……)
黎華は素直にそう思った。
沈夜辰の言う通りで、ここに至るまでの時間が掛かりすぎている。月樹ですら手出しできずに、この寝床を守るだけの月日だったのだ。
沈夜辰自らが盾となり、一歩を進む。そして巫覡である黎華の役目は、災禍の狐による乗っ取りが行われるだろう瞬間を見極め、浄化を行うことだ。
その後は、獬豸である沈梓昊の剣が、彼女を裁く。
「予想外の事態も、各々で覚悟しておいてくださいよ。大師兄には、外側からの結界を頼みます。この『間』から、アイツが決して出てこれないように頑丈なヤツで頼みます」
「……わかった。だが、無理はするなよ」
「…………」
沈梓昊は、尹馨のその言葉には笑顔のみで応えた。
決して楽な事ではないのだと、皆が改めて思う。
「じゃあ、開けるよ」
「ああ」
沈夜辰が片手に力を籠める。すると固く重い扉がギギ……と音を立てて内側へと開いた。
「阿静、君も無事で」
「うん」
尹馨に背中をそっと支えられつつ、黎華は一歩を踏み出した。
その空間は、明らかに異常であり、濁っている。それを肌で感じたからこそ、さらに慎重にならなくてはならない。
そう思いつつ二歩、三歩と歩みを進めると、背後で扉が閉められる音がした。
「……ッ」
禍々しい圧が押し寄せてくる。
以前、月樹と共にここに訪れたときは神聖そのものの空気であったのにと、黎華は思わず表情を歪めた。
「姫さん、大丈夫か」
「う、うん、大丈夫だよ……沈夜辰も、沈梓昊も……平気?」
「……ある程度は、想定内だからね。僕は老師のそばに行くけど、君は体に負担がかからないようにするんだよ」
沈夜辰は、黎華の返事を待たずに歩を進めた。
この場の空気が思っていた以上に重く、そして禍々しいからだ。黎華のような神聖性を持つ体には、酷でしかないだろう。
(残りたいと言った沙鈴を無理やり水晶宮へと帰して正解だったな……)
自分の妻は、大人しいようで芯は強い。そこはやはり尹馨の妹なだけあり、譲れないものというものがあるのだろう。
「――俺がついこの間に単独で様子を見に来た時と、全然違うな。それだけ師兄の影響があるってことか」
そう言いながら同じようにして歩を進めてくるのは、沈梓昊だった。
立場的にも黎華を守るのかと思っていたが、自分のやるべきことを優先させるらしい。
『来ヨ、愛シキ我ガ子ヨ……』
「言われなくとも……、っ、待って……」
禍々しい声の先から、変化があった。
沈夜辰はそれに備えているつもりであったが、その予想が若干外れた。寝台に寝ていたはずの麒麟――尹光馨が、ゆらりと起き上がってきたのだ。
『……オヤオヤ、当テがはずれたカ? 麒麟がアの時、我を取り込んでしまったのは、大きな過ちだったのかもしれないねぇ』
「まさか……」
(くそ……やっぱり尹老師は、もう……)
麒麟は、すでにその体をあの女に喰われていた。そう言い切ってしまうのは早計かもしれないが、今目の前に立つ麒麟は、すでにかつての楼閣の主ではない。
沈梓昊が己の額を拳で強く叩く。そうしてそこから彼だけの剣を引き抜いて、一度だけ空気を斬った。
ぶわ、と風が生まれる。沈梓昊の握った剣から滲み出るのは、この空間の淀んだ空気をじわじわと溶かす神聖なものだ。
『沈梓昊……いや、獬豸よ、我を斬るか』
「斬るさ。俺はその為に居る」
「……その体から出ろっ!!」
怒号を上げたのは、沈夜辰だった。
黎華も沈梓昊も、その声音に驚いて目を見張る。
「尹老師を喰ったって……!? 馬鹿を言うな。あの人がお前ごときに容易くその体を明け渡すはずもない!!」
『そう思うか……?』
「僕たちを惑わせるための罠だ。僕は絶対に騙されない。……早くその体を解放して、僕に移動して見せろ!」
「!」
(まさか……沈夜辰は最初からこのつもりで……だから俺の、浄化の力が必要だったの? そんな捨て身の作戦、彼にとっては危険なんじゃ……)
麒麟であるはずの影が、ゆらりと揺れた。口の端がにやりと笑みを模り、何かを企んでいることは明白だ。
「――さぁ、来い! 僕の愚かな母よ!!」
『お前まで母を愚弄するか……望みどおりに喰ってやる!!』
挑発、にしては何ともわかりやすい。
それでも、沈夜辰の策は効果的でもあった。麒麟――尹光馨の中にいた災禍の狐は、その体を捨て自分の息子である沈夜辰へと乗り移るために移動したのだ。
「姫、沈梓昊、あとは任せたよ」
「……っ、沈夜辰!!」
(ダメだ……このままじゃ、沈夜辰ごとあの狐は斬られちゃう!)
黎華は自身の判断を僅かに鈍らせた。
計算通りにあの狐が沈夜辰の中に乗り移れば、沈梓昊は迷わず彼を貫くだろう。
それをさせてはダメだと、思わず一歩が出てしまった。
――昔のような、体が弱いだけの姫ではない。
「姫さん! 何して……ッ!!」
この形では誰もが悲しむだけ――そう決意した黎華は、沈夜辰の体を体当たりで押しのけ、両腕を広げた。




