66.天狐、沈夜辰。
尹馨と黎華が熱い夜を明かし、時の刻は昼を迎えるところで、天上にいる沈梓昊から連絡が入った。
それに対応したのは尹馨のみで、黎華は未だに褥に収まっている状態だ。
『――そんなワケで、姫さんをもう一度天上へとお借りしたいです』
「黎静に危険は及ばないのか」
『大師兄もご一緒に、なら問題ないでしょう?』
「それほど、深刻なのか」
『まぁ、そうですね』
沈梓昊は包み隠すことなく、そう応えた。
尹馨もそれを予測していたのか、若干眉根を寄せて難しい表情を崩さずにいる。
「……水晶宮はどうする」
『わたくしが降ります、兄上』
「沙鈴か……夜辰はどうしている?」
『もうしばらく、こちらに留まると』
「そうか……お前がそれで良いと納得しているなら、俺も受け入れよう」
沈梓昊との会話に、妹である尹沙鈴が途中から混ざってきた。最初から彼の隣にいたのだろうと思いつつ、彼女の意思を確認して、尹馨は深く頷く。
天上で、何かが起こる。
だとすれば当然に、自分の実父である『麒麟』に関わることだろう。
幸い、現在の水晶宮は安定し続けている。妹の後を継いだ黎静の努力の賜物でもあるので、しばらくはこちらで事が起きることはないだろうと予測する。
「支度が出来たらすぐに向かう」
『頼みます。それから英雪に、もう少しだけ戻るのは遅くなると伝えておいてください』
「……あぁ」
そこで、水鏡はぴしゃんと跳ねて連絡が途切れた。
数秒後、尹馨の背後に影が現れる。
――沈英雪の姿であった。表情に揺らぎは無かったが、やはり思うところはあるのだろう。
「お前には世話をかけっぱなしだな」
「いえ、これも務めですので。……あちらには母上がいらっしゃるので大丈夫だとは思いますが、くれぐれもお気をつけて」
「あぁ」
沈英雪は一度たりとも不満を表に表すことのない人物だ。
冷静でありながら物事をよく判断し、沈梓昊と同じようにして先を視る。そして、彼は自分の主を黎華だとすでに定めているようで、その役割をきちんとこなす男でもあった。
そうして尹馨は黎華の室へと戻ってから、彼を起こして事情を説明した。
「……はぁ」
沈夜辰は、一人きりで天上の楼閣内にある麒麟の寝床の間の前に立っていた。
この扉を押し開け、入ってしまってもいいのだろうが、月樹にはまだそうしてはならぬと言われてしまっている。
(僕が飲まれるのを恐れているのか……それとも、別の憂いなのかな)
『――来ヨ』
「っ、!」
『待ッテイタ、我ガ子ヨ……』
「……はは、そんなこと言われても、僕は揺るがないよ。僕は僕で……沈夜辰であり続けるし、お前の言いなりにはならない」
扉の向こうから濁った声が聞こえた。
力のないものが耳にすればそれだけで呪われてしまいそうな、怨念のこもったそれである。
表向きは男声――おそらくは父のもので、それに重なるようにして自分の母親であったモノが伝えてきているのだろう。
ほんの少し前であれば、この声に沈夜辰も飲まれていたかもしれない。それは弱さであり、盲目的なものだ。
「開けるのか」
「止めても無駄だよ」
「いや、止めねぇさ。俺も扉の向こうに用があるからな。……だた、姫さんの浄化の力を待ったほうがいいぜ」
扉に手をかけたところで、沈梓昊が声をかけてきた。僅かに離れた先に居ることは最初から知っていたので、沈夜辰は振り向きもせずにいる。
「黎華姫がまたここに……?」
「大師兄が連れてきてくれるってさ」
「……余計な真似を、いや……感謝すべきことなんだろうな」
「そうそう、わかってきたじゃねぇか師兄! 俺はあんたがどこで野垂れ死のうが興味はねぇけど、沙鈴師姉に泣かれるのは嫌だからな」
「相変わらず、僕には容赦がないね……」
沈梓昊の包み隠さない己の感情を改めて確認して、沈夜辰は苦笑した。
少し前には互いに刃を向けあった仲でもあるために、色々と複雑な心境もあるのだろう。
「…………」
少しの静寂が生まれた。
沈夜辰は言葉を選んでいるように見えたし、沈梓昊は口の端に笑みを湛えたままで扉のほうを見ている。
「……獬豸よ」
「はい」
「お前はずっと、世を傾けるものを見極めているね」
「そうですね」
「そうして、必ず斬れるとも言った」
「まぁ、これが俺が『獬豸』として課せられている使命なんで」
お互いが扉に顔を向けたままでの会話である。過干渉はしないが、沈梓昊はやはり底知れぬ存在感があり、敵には回したくないとさえ思えてしまった。
「――例えば、斬る相手がお前と同等……もしくは上の力を持っていたらどうするの」
「あー……そこはまぁ、刺し違えます」
「随分とあっさりしてるね。死は恐れないの?」
「俺の命なんざ、安いもんですよ。ただ、『獬豸』をあまり後世に残したくないってのもあって、出来れば死なないほうを選びますけどね」
立場とは、常に重いものだ。
沈梓昊と沈英雪には獬豸と白澤としてのそれぞれの重みがある。主君を自分で選べる利点はあるものの、やはり役目を全うしなくてはならないからだ。
それが神であろうが瑞獣であろうが、何も変わらない。
そして沈夜辰とてそれは同じだ。彼は生まれた時から『天狐』の格を得ていたが、それゆえに異端とも言われてきた。だからこそ沈姓を賜り月樹や麒麟の尹光馨の門下になったのだが、これはおそらく父の唯一の思いやりだったのだろう。
最初こそは厄介払いをされたのだと思い込んでいたが、今となってはなんとなく理解できてしまうのだ。
「……僕の母を、斬ってくれるかい」
「もちろんそうしますけど、父君がどうなるかは保証しませんよ。尹老師と最後にお会いになった時、彼女は父君の器を借りてたんでしょ。だったら……」
「いや、もう多分……天狐の父は、母に飲み込まれて救えないと思ってる。正直な話、僕は父への思い入れは元々は大してないんだし、もう姿さえ憶えていないよ」
「……まぁ、そちらさんの事情は、俺も把握はしてますけど……あんたがそうやって割り切ってくれてるんなら、俺もやりやすいですよ」
いつになく素直な心情を吐露してくれたな、と、沈梓昊は感じていた。
それだけ、自分にとっての師兄は変わったのだろうし、自分から変わろうともしている。
出来ることならこの先もこうであり続けてほしい。そう思うからこそ、沈梓昊は『獬豸』としての役割を果たさなくてはならないのだ。




