65.静かに息づくもの
下界の水晶宮では、主人である黎華が日課である花丹の生成に勤しみ、鍛錬を行っていた。
特別なことでなく、ひたすらに独坐をして腹の部分で手を組み、気を高めるのだ。
(……以前の俺は、こんな簡単なことすら出来なかった。独坐だって満足に出来なかった……体が健康であるという事に、改めて感謝しないと)
心でそんなことを呟く余裕すら出来た。
彼の妹が霊亀の座を継いでからというもの、定期的に泉を清める事は必ず必要ではあったが、以前のような血の色の池を目にすることは無くなった。
結果、霊峰の平野地で暮らす民たちにも迷惑をかけずに済んでいる。
「……ふぅ」
しばらくは目を閉じたままであった黎華は、そこで鍛錬を終えてゆっくりと息を吐き、瞼を開いた。
相変わらずの水色と桃色の混じった美しい瞳は、今も健在だ。
「尹馨は、まだ帰らないのかな……」
夫の尹馨は、現在は下界での見回りで出払っている。これは本来の姿である応龍としての役目でもあるので、欠かせないことの一つでもあった。
室を出て、見慣れた階をゆっくりと降りる。
「そういえば、前に一人で出て沈英雪に怒られたっけ……」
「――供をお付けくださいと、再三申し上げたはずですが」
「っ、びっくりした……」
数歩を降りたところで、声をかけられた。
沈英雪本人の声だ。
顔を上げれば、庭先には難しい表情をした彼が立っており、すっ、と手を差し伸べられる。
「待ってなくてもいいよって、言ったのに」
「……大師兄がご不在の間は、姫をお守りするのは私の役目ですから」
「相変わらず、俺に甘いなぁ……でも、ありがとう」
沈英雪の手を取った黎華は、苦笑しながらそう言う。
彼には散々世話になった身だが、それでも沈英雪は何も変わらずに接してくれる。おそらくは彼自身も未だに責任を感じているのだろうし、こればかりは時間に任せるしかない。
「庭をお歩きに?」
「……うん、少しだけ」
辺りは、静かであった。
以前は黎華を気遣う侍女たちの気配が多くあったが、その彼女たちには暇を出している。たくさんの褒美と、たくさんの土産を持たせて、各地に帰らせたのだ。中には天へと帰った者たちもいるし、戻ってきますと言い残してくれた侍女もいた。
沈英雪を供に、黎華は庭をゆっくりと歩く。かつては多くを歩くことはできなかったし、ここから数歩歩いた先にある客間は、最初に尹馨を連れて逃げ込んだ場所でもある。それらを懐かしく思い返しながら、黎華は『今』を感謝した。
「……ねぇ、沈英雪」
「はい」
「妹がね、侍女の一人にこんな言葉を残して行ったんだ。『私がここにいたこと、黎静と黎華という双子が確かにいたこと、二人はどこまでも運命に抗ったことを、憶えておいてね』って」
「――その侍女どのは、お二人にとっての唯一の側女だったのでしょう。我らにではなく彼女にそう言ったのは、純粋な水晶宮の人間の記憶に、お二人がいたことを憶えておいて頂きたかったのだと思います」
「うん、そうだね……」
黎華は池を眺めつつ、そう言っていた。
遠い昔のこと、そしてこの池での沈英雪や沈梓昊との出会いを思い出しているのかもしれない。
「ところで、その侍女どのは?」
「暇を出したんだけどね、どこか静かな場所でひっそり暮らして、書物を世に出したいって言っていたよ」
「では、こちらにはもう……」
「うん、ここの人たちって皆、ヒトよりは長生き出来ちゃうでしょ。その分、残りの人生は自分のために使ってもらいたいんだ。だから俺が、戻らなくてもいいよって伝えたんだ」
(とても、姫らしい考えですね……侍女どのがそれでご納得されたかどうかはわかりませんが……)
沈英雪は内心でそう呟いていた。
該当する侍女のことは知っていたし、やはり一番の苦労人でもあっただろう。黎家に仕えると決めた以上は生涯その務めを果たすものだとは思うが、彼女なりに思うところがあるのかもしれない。
「――変なこと、聞いてもいい?」
「何なりと」
「沈英雪は……もし沈梓昊に子供が欲しいって言われたら、どうする……?」
「は……」
思いもしない唐突な問いかけに、沈英雪は間の抜けた返事しか出来なかった。
直後に状況を理解するが、それでも返答には困るらしい。
「……大師兄に乞われましたか?」
「尹馨というより、月樹さまかな……早く子供が見たいって、言われてて」
「まぁ、あの方はそういう事が大好きですからね。……私は、断りますが」
「沈梓昊は悲しまない?」
「……私はハクタク、梓昊はカイチ。例えどちらかが女子であったとしても、互いに望みはしないでしょう」
種の混在を危惧しての言葉だろうかとも思ったが、彼も沈梓昊も子を望まないという言葉には黎華も妙に納得した。おそらく、彼らも性別は気に掛ける要素ではなく、互いがどう思うか次第なのだろう。
「姫は、お厭いですか?」
「そうじゃないんだけど……俺は結局、神ではないし……やっぱり、その、男だからっていうのが、気にかかっちゃうんだ」
「なるほど。しかし、あなたがもし女子であったなら、すでに身重になられていたでしょうね」
「ちょっと、沈英雪!」
「ふふ……」
まさかの言葉に、黎華は沈英雪を振り向いて講義をした。だが、その頬は桃色に染まっている。
もちろん冗談なのだが、彼がそんなことを言うこと自体が珍しく、黎華もすぐに口元を緩めて笑ってしまった。
「姫の憂いはわかりますよ。ましてや愛した人との『子』ですからね。ですが……あなたのお体に大師兄の鱗が宿っている以上、そして月樹のご加護が続く以上、いずれはその身に新たなお命を宿すでしょう」
「……天上で笑われたりしない? 俺のせいであなたたちの立場が悪くなったりするのが……本当に嫌なんだ」
「あなたはご自分の価値をまだそんな低い位置で捉えていらっしゃるのですね。他でもない応龍に嫁いだのですから、細かいことは考えずに胸を張りなさい」
沈英雪の気が、僅かに乱れた。
これはハクタクである彼だからこその特質だろう。
――彼は、真の『高貴で有徳な者』にしか仕えないのだから。
それを改めて感じた黎華は、今度こそ素直に『うん』と返事をした。
すると沈英雪は、満足そうに微笑んで頷いてくれたのだった。




