64.愛憎
――私は天狐になりたかった。天を仰ぐことに意味を見出すことができなかった。
いつそう思うようになったのかは、さすがに憶えてはいない。野狐の時代からであったのかもしれないし、意思を持って修業を始めた頃だったかもしれない。
野心であったし、野望でもあった。
ただの平凡な狐として死ぬのは嫌だったし、女としても格を上げたかったのだ。
だから使える術はすべて試し、師も男も、何人の同胞を殺しても何とも思わなかった。
男は単純で扱いやすかった。私がほんの少しだけしおらしくして、肌を見せれば陥落などしない存在はいなかった。房中術も私にとっては容易い術であったし、必要な快楽も得られて苦労はしなかったのだ。
天狐は婚姻を結ぶことで格を上げる。だから私もそれを狙った。順調に天へと上り詰めるも、私の前には天狐の許婚である空狐が立ちはだかった。
だから私はひとりの女として流喜へと近づいた。彼は私のような淫猥な行いをする女を特に嫌って見せたが、それでも私の術が上回っていた。彼の前でホロホロと泣き、苦しくて寂しいのだと訴えれば、流喜は呆気もなく私へと手を差し伸べてくれたのだ。
哀れだと嗤ってやればよかったのに、その光景だけは未だに忘れることが出来ない。彼の手の温かさと誠実な態度が、私の決意と野望を微かに揺るがせた。
今にして思えば、それは愛だったのかもしれない。
彼を愛してしまったような気がして、私はどうしようもなく動揺した。そうして彼を絆して、何度も彼の体の上に乗った。天狐であり、男である彼を、私はまるで女人を犯すようにして何度も求めたのだ。
――結果的に、私は天狐の側室となっていた。
あの女は当然として彼の正室に収まったが、気位の高さが災いしたのか、子は授からなかった。
対する私は、天狐の位を得られなかった代わりに、天狐の子を孕んだ。
その事に一瞬だけ気を緩めてしまった私は、あの女の『祝いの品』を迷いなく受け取ってしまった。珍しい茶と簪であったが、そのどちらにも毒が仕込まれていた。茶は喉を通す前に気づいて床に捨てたが、それが狙いだったのだろう。空気に触れた液体が、そのまま毒粉として周囲に広がり、私は死にかけた。
『汚らわしい女め、お前の産む子もまた汚らわしいのだろう!』
そんな罵倒が、毎日続いた。
私は吸い込んでしまった毒粉が抜けきらず、冷静な判断が出来なくなっていた。
――否、そうではなかった。
『私』は、最初から浅ましい野望を抱く、低俗で汚らわしい女。
何をしようと、何を考えようと、何を起こそうとも、私にとってはすべて『善い』のだ。
「……そうだ、私は今まで何を迷い、立ち止まっていたのか……私にはこの子がいる……」
女は自分の腹を摩りながら、そう呟いた。臨月間近の、大きな腹である。
彼女は口の端のみで笑みを浮かべつつ、何かを呟いた。その言葉こそが腹の子への呪いとなり、記憶の片隅に残ることとなる。
天狐の正妻である空狐は、この女の罵倒を繰り返していくうちにとうとう正気を保てなくなり、一つの室へと幽閉された。天狐への怒り、恨み、側室のあの女への憎悪。その場で死ぬことさえできれば彼女自身も楽であっただろうに、空狐の恨みの感情はそれからしばらくも続いてしまった。
それからまた幾日かが過ぎ去り、あの女が子を産み落とした後、その存在と天狐の流喜が、溶けるようにしてその場から消えた。
当然のごとく、残された赤子を正妻という立場ゆえに押し付けられた天狐の女は、絶望の淵に立たされた。
「汚らわしい……忌々しい、腐ったあの女のにおいがする……その子を我に近づけないで!!」
当然として、まともな子育てなど出来なかった。
乳母と侍女がなんとか赤子を育てたが、血のような赤い瞳が恐ろしいと密やかに囁かれつつ、その子は育っていく。
ほとんど泣かず、手はかからない。だが、子供らしい仕草は一切見せずにいた為に、誰も愛情を注ぐことが出来なかった。
「流喜、なぜ我を救いに来てくれないの。あの女の、どこがそんなに良かったの……!!」
夫への明確な不満を漏らしたのは、その一度きりであったか。
互いの親が決めた結婚であった。生まれた時から天狐に嫁ぐことが決まっていた空狐の姫は、蝶よ花よと育てられた環境ゆえに、気位が高くその上に男性への免疫もなく、彼女が閨を共にしたのは初夜のみであった。
愛し合っていたのかと問われれば、そこに愛は無かったように思える。ただ、少なくとも彼女は天狐・流喜を愛していたのだろうし、だからこそ側室の女の存在は許せなかったのだろう。
対して流喜は、結婚は義務としか考えておらず、子を成すつもりも無かったようだ。一族の長として最低限やらねばならないことをこなしただけで、自分よりも友人たちを大事にする性格でもあった。
「……麒麟にも鸞にも、私こそが添えればよかったのですけどね」
彼がぼそりと零した言葉は、独り言であった。
ただ、その響きを聞いてしまった妻はやはり、何度目かの絶望感を味わうことになったのだ。




