63.在りし日のこと
「霊亀の奶奶が、退くらしい」
いつであったか、そんな言葉を麒麟に投げかけた。
麒麟の隣には天狐がいて、「言葉を慎みなさい、鸞よ」と苦言をぶつけてくる。
麒麟の名は尹光馨、天狐の名は流喜。そして鸞は月樹である。
「あの奶奶も永かったな。厳しいばっかで水源を清めることに精一杯でさ、今じゃ見た目もすっかりババァだぜ」
「……月樹よ、流喜の言葉を受け入れよ。霊亀に失礼であろう」
「オレの一言一句であの奶奶が今さら怒ったりするかよ」
「はぁ……」
天狐の流喜が、仰々しくため息をこぼす。彼は銀の髪が美しい、優しい面持ちの男性だ。
もとより、月樹は破天荒な性格であった。鸞という立場にも拘らず、驕らず諂わず、若干怠慢な態度こそあったものの、瑞獣の長の一人としては申し分はない存在でもある。
外見だけで言えば青い髪の尹馨と言ったところで、いわゆる『美男子』であった。
麒麟の尹光馨は、いかにもといった自分にも他人にも厳しそうな貌で、美形であるにも関わらず、誰もが声をかけづらい雰囲気を持ち合わせる存在だ。肩を過ぎた黒髪は、上半分を高い位置で結い上げている。
片手にはいつも木簡が収まっており、読んでいたり文字を書き込んだりを繰り返しているようだ。
「しかし、後任の霊亀はまだ決まっていないのでしょう。今後はどうするのですか」
「……そうであるな。霊亀があれほど頑固でなければ、こちらからの輩出ももっと早くに出来ただろうに」
「オレたちは髪の毛一本からでも命を生み出せるが、霊亀となればその事情も違ってくるしなぁ……」
月樹は二人が座している隣で寝転がっていた。両腕を頭の後ろに置き、足はだらしなく曲げつつ組んでいる。そんな彼は何かを思いついたようにしてパッと表情を変えて、がばりと起き上がった。
「……いっそのこと、オレらで子作りしてみるか?」
「は?」
「……愚かなことを」
考えも及ばないことを突如として切り出され、天狐も麒麟も呆れ返った。
この場においては、彼らは全員男であるし、子を成すという概念すら持たない。
「考えてもみろ。元より、応龍が不在なのだぞ。そのうえ霊亀まで不在となれば、オレらの面目も立たないだろ」
「そうはいってもですね、月樹。我々は元来、下界のヒトには見えぬものです。面目とやらが称賛などに言い換えるならば、我らは我らのままでいることが理想だと思うのですが」
「むぅ、お前はいつだって真面目だな、流喜。オレらの子が欲しいとは思わないのか?」
「……だから、なぜそのような飛躍した思考になるのですか」
がしゃん、と音が響いた。
麒麟の尹光馨が手にしていた木簡が、少々乱暴に文箱に置かれた音である。
「どうした、光馨?」
「実に下らん。お前のその呆れた思考にはついていけぬ」
「あぁ……」
麒麟はそう言い残して、この場を立ち去って行った。月樹の言葉が真実だと思えず、怒りを買ってしまったのだろう。いつものことではあったが、今回は彼の機嫌が直るのは少々先のような気配がする。
「どいつもこいつも頭の固いやつばかりだ。オレはつまらん!」
「まぁまぁ、月樹。我々というのは、そもそもはこういうものじゃないですか」
「お前は興味がないのか、流喜?」
「……月樹ほどの好奇心は持ち合わせてはいませんよ」
「オレは知りたいね。ヒトがヒトを育む姿を見てきたから余計に。次代の天子が立つ気配はしばらく無いが、オレは下界の尊い命が好きなんだよ」
――わからなくはない、と、流喜は感じたようだった。
彼自身はさほど下界には赴きはしないが、ヒトが嫌いなわけではないし有限である命の尊さもわかっているつもりだからだ。
「原初の神は、何をもって我らを作ったのでしょうね。その存在に近ければ近いほど、ヒトとの差を感じざるを得ません」
「まずもってオレらには同衾の必要がない。……この指一つで命が左右されるのも、なんだか味気ないだろ」
「私の一族は混血を何より嫌いますし、そういうのもきっと種を細くしてしまうものなのでしょう。ヒトのような恋愛をしたいわけではないですが、私もいずれは妻を迎えねばなりませんし、そうなると憂鬱かもしれない」
「オレらは永劫、清いままでいろってか……はぁ、つまらん。オレは男女とかは別にどうでもいいから、育みが見たいし知りたいんだよ」
(やれやれ、まるで駄々っ子ですね……)
流喜は内心で呆れかえっていた。
尹光馨がこの場を去り、月樹はまたその場に寝転がってしまった。その後はヒトの子のようにして手足をバタバタとさせながら、不満をあらわにしている。
付き合いが長いからこそ慣れてしまった光景ともいえるが、麒麟と鸞はゆくゆくは長とならねばならない存在で、天狐の彼は、そんな彼らの補佐をしていくつもりであった。
人の形を取れぬ頃からの友人であり幼馴染の麒麟と鸞と天狐は、人々が伝え聞く真実よりずっと近しい存在であった。
そうしてこの平和で少しだけ湾曲した三人だけの居場所を、これからもずっと保持出来るものだと信じて疑うことは無かったのだ。




