62.対峙
沈梓昊は、一人でその場に立っていた。
楼閣内の麒麟の寝床と言われる『鎮魂の間』である。
普段であれば月樹と尹馨しか入れない場でもあるが、沈梓昊には彼だけの役目が存在するために、特別に足を踏み入れることだけは許されているのだ。
「……なぁんで、最初にここに気づけなかったかねぇ。俺も英雪に夢中になりすぎて、判断が鈍ってたってことかな」
とんとん、と拳で額を叩きながら沈梓昊はそう言った。
いつもとは違い、低い声音であった。彼の視線の先は、当然に麒麟の眠る寝台である。
相変わらず、簡素で寂しげな空間でしかなかった。
天蓋から伸びる透けた布の向こうには、眠り続けている尹馨の父であり、自分たちの師匠がいる。
「尹老師、聞こえているんでしょう。愛弟子が来たっていうのに、眠ってばかりじゃ疲れません?」
軽めの言葉を投げかけてみた。
当然だが、それには返事はない。
「やれやれ。意識まで喰っちまってるのか、それとも意図的に反応しないのか……俺的には後者であってほしいんですけどね」
沈梓昊の金の目が、鋭く光ったような気がした。
軽い口調のままであるが、彼は明らかに普段の『沈梓昊』ではない。
「――ここまできて、知らぬ存ぜぬが通じると思うなよ、『世を傾ける者』よ」
彼はそう言いながら、また額を叩いた。
そうして、かつて沈夜辰に見せたように、額から柄のない剣を引き抜いて見せる。
沈梓昊という表の名ではなく、真の姿である獬豸として、その場に立っているのだ。
「目くらましに沈夜辰をうまく俺にけしかけたのはまぁ、いいさ。だがそれでも、俺はハナから師兄がそうじゃないって気づいてたんだぜ」
『……、……その剣を、下げよ』
寝台から、そんな声がした。
懐かしい響きは、麒麟のものだ。
だがそれは、偽りの声音でしかない。
「尹老師がまだ中で頑張ってくれてるんだな。……どうだ、天上の神の能力ってのは、底知れねぇし、強力だろ? これを解除できない以上、あんたは永遠に『空狐』のままだ」
『無礼な……沈梓昊よ、そなたは我を何とする――』
「無礼? どっちがだよ。……俺は獬豸だぜ? 少なくとも、あんたより格上だ。まぁ、そんな『格』なんてのは、俺にとっちゃぁどうでもいい話なんだがな」
ヒュン、と音を立てて獬豸の剣が寝台へと向けられた。
だが彼は、そこから一歩を進まずにいる。
「俺があんたを斬りにいかない理由はわかってるか? 安易にその体――老師を人質だとは考えないほうがいいぜ? そんな浅はかで愚かな理由で、あんたがその場に生かされているはずもない。俺はいつでもあんたを殺せる」
『!!』
『今』はそうしない理由がある。
沈梓昊はそれを相手に伝えていた。言葉通りにいつでも斬れるのだが、麒麟自身が封印を解かぬ限りは、手を出してはならないのだ。
麒麟は未だに、寝台の上で横たわったままである。
最上の神である彼ですら、その身に取り込んだ狐を抑え込むことしか出来ない。それだけ、『彼女』が今までに奪ってきた命や霊力が、強く歪んでしまっているということだ。
「いつまで耐えるのかには興味ねぇけど、尹老師や月樹さまの為にも、早めに自分からここを出てくれな」
(……そうは言っても、尹老師がどこまでを抑えてくれてるのかは俺にもわからない。これだけ時間がかかってるってことは、相当なモンなんだろうけどな。あちらもこちらも、八方塞がりの状態ってワケか)
沈梓昊は思案を続けた。
こんな状況をいつまでも長引かせるわけもいかず、誰しも『麒麟』のことを気にかけているはずだ。
(霊力は今や呪いそのもの……だったら姫さんにもう一度こっちに来てもらうか……? 師姐と夜辰には早めに下界に降りてもらうか)
尹沙鈴はすでに霊亀では無いとはいえども、なるべくであれば邪気には触れさせたくはない。それは彼女の母親である月樹もそう思っているはずであるし、母子の再会を充分に味わった後は、再び水晶宮に降りてもらうしかないだろう。
(夜辰――師兄は、どうする気なんだろうな。何の考えも無しに天上に上がってきたワケじゃねぇだろうし、何かしらを勘付いているんだろうし)
「――まぁ、いいか」
ある程度の思考を巡らせた後、沈梓昊は吐き出すかのようにしてそう告げた。
宣戦布告はしたのだ。相手の動きが無い以上は、一歩を下がる他はない。
「俺は決してお前を逃さない。必ず、俺の手で斬る」
それだけを言い残し、沈梓昊は『鎮魂の間』を出た。
『麒麟』が『狐』を解放しない限りは、手出しが出来ない。それは麒麟なりの考えあっての事でもあろうが、今はその時を待つしかないのだ。
「ふむ……」
月樹がその場に立っていた。鎮魂の間から少しだけ離れた、円柱の影だ。
ちょうど沈梓昊が間を出て、通常の回廊へと歩を進めているところであった。
「……我が背の君よ、いつまで妾を待たせるつもりか?」
ぼそり、と心情を漏らした彼女の瞳には、強い意志を湛える炎のような光が宿っていた。




