61.災禍の狐
『四獣』とは、この世界における天上の神である。麒麟、鸞、霊亀、応龍がそれにあたり、それぞれに役目があった。
泰平の世に現れる麒麟。それに連なる鸞。吉凶と水を司る霊亀、天と地を自由に行き来することが出来るゆえに、人々の魂の往来を導く応龍。
元来は天子あってこその存在でもあったが、今世に天子がおらず、当てはめるとすれば水晶宮の主である『黎華姫』がそれに該当するのかもしれない。
その『四獣』に対して、かつては異を唱えた者がいたという。
――『天狐』も『神』であるべきだと、かつての『彼』が『麒麟』に意見をぶつけてきたようなのだ。
そもそも、狐には数多くの種が存在する。
地上に住まう野狐から始まり、仙狐、気狐……と言った格付けが存在し、最終的に仙術を極めた者だけが天狐となる。
かつては孤高の存在と称されていた天狐は、沈夜辰の父親であった。
尹馨の父である麒麟とは友人関係であり、昔はそこそこに交流もあった。無口で無愛想で冗談さえ通じぬつまらぬ男じゃ、と評価していたのは鸞の月樹だ。
――『それでも、友である』とも付け加えられていたのだが、それを知るものは決して多くはない。
天狐には二人の妻がいた。一人は正室である空狐であった女性で、天狐に嫁いだことで格を上げて天狐となった存在だ。そしてもう一人が妾の空狐であり、この空狐が夜辰の母親でもあった。女性ながらも誰よりも天を望み、天上の主の格を欲した彼女は、その姿が地上の野狐であった時から歪んだ野望を抱いていた。
長くつらい修行の中で、彼女は独自の呪術を生み出し、当時の師や同門の弟子たちを殺して彼らが持ち合わせていた術や精力を体内に吸収しては、偽りの『丹力』を手に入れていった。女であることを武器にも使うことで、夜辰の父親である天狐をも手中に収めてしまったのだ。
その結果、正室であった天狐の妻は精神を病み、最終的には夜辰につらく当たった。彼女自身に子が出来なかったという事もあり、怒りの矛先が妾腹の息子に向いてしまったのだろう。
――穢れた子め。許さない、許さない。
何度もそう言われてきた。
(思い返してみれば……あの人も苦しかったんだろうな)
今だからこそ、わかることもある。
地上での自分の罪が受け入れられ、許されていくこの時間の中で、沈夜辰の思考の整理も随分出来るようになった。
「久しいの。もっと近う寄らんか」
「……月樹さま」
天上の楼閣にて、鸞の月樹と対面した。
沈夜辰にとっては、もう何年会っていないのかすら判らないほどに時が経っている。
そうして彼の隣に立つ尹沙鈴とて、それは同じであった。
「は、母上……」
沙鈴は声が震えていた。
彼女が彼女として、こうしてこの場に立てることなど、二度とないと思っていたからだ。
「……阿鈴よ。美しゅうなったな。まだ妾を母と思うてくれるか?」
「もちろんです。わたくしの母は、月樹……鸞の君様だけです……お会いしたかった……!」
「そうか……妾も、そなたにこうして会える日をずっと夢見ていた。愛しいわが娘よ、どうかこの腕に収まってくれ」
「はい……!」
沙鈴はその特殊な生まれゆえに、この楼閣の天上の間にすら入ることが出来なかった。
あの結界だらけの室の中、弱々しい蝋燭の炎の先でしか母の顔を知らず、こうして抱きしめあうことすら叶わなかった。
確かな親子である二人でさえ、どうしようもない壁が存在した。
自分はどうだろう、と沈夜辰は遠くで考えてみる。実母がどうしているかなど記憶には無いし、父の天狐のことすら憶えてはいない。義母は発狂の末に姿を消したと聞く。
(……そうだ、このあたりを月樹さまに聞こうと思ってたんだった)
沈夜辰が尹沙鈴と共に天上へと戻ってきた理由は、ここにある。
いい機会だろうしと誘ってくれたのは同じく報告のためにこちらに戻る沈梓昊であったし、これ以上の条件は早々訪れないだろう。
ちなみに、現在は沈梓昊の姿は見えない。自分たちに気を遣ってくれているのか、それとも彼なりの目的があるのかは考えないようにした。
十分に母娘の温もりを確かめ合ったあと、尹沙鈴が月樹から一歩を下がった。その目は僅かに腫れていて、恥ずかしそうに着物の袖で隠している仕草がまた愛らしいと思う。
「――沈夜辰。申してみよ」
月樹がそう言う。
彼女はすでに、事情をある程度察しているのだろう。
改めての拱手礼をした沈夜辰は、ゆっくりと口を開いた。
「天狐の気配を感じ取っておられますか」
それだけを告げてみる。
すると月樹は僅かに眉を動かし、数秒置いた後に「……うむ」と答えてくれた。
「――僕には意図的に隠された記憶があります。聞かせて頂けませんか、月樹さま」
「そこに気づいてしもうたか。そなたの記憶を封じたのは、妾自身じゃ」
「やはり、そうだったのですね。尹老師が倒れられたあの時、何があったのですか」
「……天狐の格を平等にせよと、そなたの父御が訴えてきた。それは知っておるな?」
月樹がそう問えば、夜辰は黙って頷きを返す。
傍で二人を見守る形となっていた尹沙鈴も、真剣な面持ちとなっていた。
「あれは父御のご意思ではなかった。それを見抜いていた我が背の君が、『あやつ』を封印したのじゃ」
「あやつ……?」
「……薄々勘付いておるのじゃろう? そなたの母御じゃよ」
「!」
――ユックリ、ユックリ……オ前タチヲ、狂ワセテヤル。
いつかに聞いた声が、蘇る。
そんな気がして、沈夜辰の表情はいつになく厳しいものに変わっていた。




