34.瑞獣、獬豸。
水晶宮の源流の泉から離れてきた沈夜辰を、一人の男が追っていた。
建物一つを人並み外れた跳躍で飛び越えても、『彼』は軽々と追い付いてくる。
「いい加減、しつこいね。……沈梓昊」
「まぁ、これが役目なんで。あんたも観念して下さいよ」
沈夜辰が足を止めて、振り返りながらそう言った。
街道から少し外れた場所にある林の中、兄弟子と弟弟子が向き合って交わす言葉は、当然ながらあまり好ましい響きでは無かった。
後を追ってきたのは沈梓昊で、そんな彼を沈夜辰は忌々しく感じたのだろう。
だがそれでも、攻撃を仕掛けてきたりといった行動は起こさなかった。
――尹馨には出来ても、彼には出来ないのだ。
「……それで? 追捕しろって尹馨に言われたの?」
「いや、そこは聞いてません」
「…………」
そう問いかけると、沈梓昊はいとも簡単にそんなことを言ってのける。
彼は肩を竦めて口には笑みを湛えたままで、その先の感情をのぞき込める余地はどこにもない。
だからこそ、やりにくいと感じてしまう。
追ってくるのが沈英雪であったのなら、今の状況はもっと動いていただろう。
彼は一見無表情で感情を表には出さずにいるが、それでも胸の内の揺れ動きが読める。
だが目の前の男には、それが通用しないのだ。
「……前から思ってたんですけど、あんたってなんでそんなに尹馨に執着するんです?」
沈梓昊が、そんな事を問いかけてきた。
対する沈夜辰は、その響きに一瞬だけ瞠目した後、首を傾げた。
「さぁ、なんでだろう」
「まさかとは思うが、沙鈴師姐を隠れ蓑代わりにしたんじゃないよな?」
「――っ、お前……。よくもそんな失礼な事、僕に言えるな」
沈梓昊の更なる問いかけに、今度こそ沈夜辰は苛立ちを露わにした言葉を返した。
だがそれでも、沈梓昊はそれを冷静に受け止めている。
常に先を見続ける男は、今この時でさえも様々な事を考えているのだろう。
何をしても隙を完全に作らない男に対して、沈夜辰は精神的にもじわじわと追い詰められていくような感覚に陥っていた。
それを振り切るかのようにして、彼は少しの間を置いてから口を開く。
心の奥底にずっと、小さな感情が見え隠れしていた部分の話だ。
「……いや、でも……完全に違うとは言い切れないかもしれないな」
「師兄……」
「誤解してほしくはないんだけど、僕は沙鈴を誰よりも愛している。それは今でも変わりはない」
「そうでしょうね。それは良く解ってますよ。……だけどあんた、気づいてないのか?」
――何を。
沈夜辰は眉根を寄せつつそう言ってくる。
それを見て、沈梓昊は少々困り顔となった。そして軽くため息を吐いてから、目についた狗尾草を言葉なく引きちぎり、狗の尾のような穂の先を沈夜辰に向けてゆらゆらと振って見せる。
「尹沙鈴は、ちゃんと生きてますよ」
「――――」
飄々とそう言ってのける沈梓昊に、沈夜辰は今度こそ返す言葉を失った。
漠然とは勘づいていたはずなのにとも思えて、沈梓昊は肩を竦める。
尹沙鈴が生きている。
彼女は霊亀だ。水晶宮に根付いている存在そのものだ。
そしてそれは、沈夜辰が何よりも誰よりも、解っている事だ。
「……生きてるって言うのは、解ってるよ。今だってあの水源から穢れた呪いを流し続けてる。……本人の意思も関係なしに」
「その為の『黎華姫』だっただろ。それをあんたの身勝手で壊したのも、あの場で犯したことも、師姐は見てましたよ」
「嘘だ!」
「……動揺しましたね。もしかして気づいてたのに気づかないフリでもして――」
言葉が途中で途切れた。
沈梓昊の手にしていた狗尾草が、僅かに風を切る音のみで斜めに切れる。
それと同時に沈梓昊は上体を後ろに引いていたのもあり、切っ先が触れることは無かった。
「あっぶねぇなぁ……」
「――沈梓昊、剣を出せ!」
己の剣を横に薙ぎ払った沈夜辰が、そう言いながら睨みつけてくる。
沈梓昊はそれに笑いながらも対応して、狗尾草を道端へと投げ捨てた。
「あんたは知ってたんだっけ。……俺が普段、剣を佩かない理由」
「無駄口は叩くな。殺してやる」
――言わずに斬りかかってくればいいものを。
そう、心で余裕に呟いたのは沈梓昊であった。そして彼は右手を額辺りに持っていき、何かを握る仕草を見せてからまるで体から何かを引き抜くようにして、青白く光る剣を顕現させた。
尹馨や沈英雪の持つような剣格がついた形のものではなく、例えるならば鉱石からそのまま全体を切り取り剣としたような、そんな形状となっている。それゆえに、鞘も無い。
これが沈梓昊の、彼だけが手にすることが出来る唯一の『剣』であった。
「……俺は獬豸。本来ならば公正を導く瑞獣です。俺の体の全て、そしてこの角から生まれた剣が、相手が何であっても世を『傾ける者』であれば、殺せます」
「ならばやって見せろ。そして僕を殺せばいい!!」
沈夜辰が、地を蹴って沈梓昊へと再び切っ先を向けてきた。
迷いのない剣筋であったが、心が揺れ動いている為なのかあと一歩の鋭さが無く、沈梓昊にとってはとてもゆっくりとした光景にしか映らなかった。




