其の九 友の痛みを拳に乗せて
ゲンは昼時に麻草の町をふらふらと歩いていた。日曜の昼時で、人通りも多い。
「どーぉすっかな。どっか、仕事見っけねぇと、さすがにこりゃ、もうまずかんべなぁ・・・・・・」
古刹参拝をした後、ゲンは「どじょうでも食いてぇな」と呟き、独楽形橋の方へ歩いてゆく。
するとその途中、通り沿いの広場に人だかりができ、何やら賑わっているのを見つけた。
「何だ? 何かの叩き売りでもやってんのか?」
ゲンは興味本位で、「ちょいとごめんよ」と人をかき分け、その賑わいの中へ入った。
するとその眼前に広がったのは、荒縄が四隅に張られた、簡素なリングが一つ。
その隅には、軍服ズボンと安全ブーツを履いた上半身裸の金髪の米兵が、大声で笑っていた。両手には、綿詰めの手袋をはめている。リング下では、仲間の米兵たちが品無く笑っている。
一方の隅には、同じ綿詰めをはめた男が、質素なイスに座って血まみれになっていた。
「あっ! ・・・・・・う、うそだろ! あ、あれは、島村じゃねぇか! 何でこんなことに!」
ゲンは慌てて、島村のもとへ駆けていった。
「おい、島村! 聞こえてんのか、島村っ! 俺だ! 俺だっ!」
「う、うう。ゲ、ゲン・・・・・・か・・・・・・」
「何でおめぇ、こんなことになってんだ! 何があった! 何で進駐軍のやつなんかと!」
「す、すまねぇ。あの米兵・・・・・・この間、ゲンが酔っ払ってぶっ飛ばした、でぇびっどって奴の仲間らしくてよ・・・・・・。お、おらがゲンの友人と知って、無理矢理この茶番にぶちこみやがってな」
「な、なんだそりゃ! 島村! おめぇだって、太平洋大学空手道部の副将だったのに、なんでこんな血まみれにされてんだ! 一方的にやられちまってるっていうんか! どうしたんだ!」
「み、見てのとおりだっぺ。おらにはこの綿詰めは、勝手が良くねぇ。いいように、見世物にされてるのさ。・・・・・・きゃ、客も、おらが殴られて悲鳴を上げるが、進駐軍のやつらは笑って・・・・・・」
「なんてこった、ちくしょうが! 殺されちまうべ! こんな茶番から降りろ、島村!」
「そ、そうしてぇのは山々だけどよ。・・・・・・あの米兵を倒せば、降ろしてくれるそうなんだよ」
ゲンは、ニヤニヤと笑って待つ金髪米兵の顔を、ぎらりと睨みつけた。
「簡単じゃねぇか! 代われ、島村! 俺があんなやつ、一撃でぶっ飛ばしてやっからよ!」
「む、無理だゲン! こ、この綿詰めは扱いにくいし、こ、この茶番、蹴りが禁じ手でよ・・・・・・」
「なんだとぉ? 蹴っちゃダメっちゃ、なんだそりゃぁ! ふざけやがってぇ!」
「ゲ、ゲン・・・・・・。これは・・・・・・ぼ、ぼくしんぐってやつだそうだ! 拳闘だよ、拳闘・・・・・・」
「ぼくしんぐ? 拳闘じゃ、要は蹴らずに殴り倒せばいいんだろ! 俺がやる。お前は休め!」
「む、無茶だ・・・・・・。聞いたところ、あのウィルソンって米兵は、ぼくしんぐのへびぃ級ってやつの世界五位だかって、話してやがった。おらでも英語、多少はわかっからな・・・・・・」
米兵たちは「ウィルソン、あいつがディビッドをやった奴だ」と言い、ゲンを指差している。
「ぼくしんぐもへびぃも、知ったことか! 野郎、許せねぇべ! 見てろ島村。敵は討つぜ!」
ゲンは弱った島村をリングから降ろすと、浴衣袖を襷で縛り、綿詰めを付けて中へ飛び込んだ。
* * * * *
「HAHAーッ! HAY、ジャップ! ユア、ゴーングトゥダァイ、ヒァ、ナァウ!」
金髪の米兵ウィルソンは、大笑いしながら、リングの中央へ足を進めてきた。そして、仲間の米兵に英語で「ゴングを鳴らせ」と叫び、両拳を顎前へ置いてボクシングの構えをとった。
遥かに体格で劣るゲンは、下からウィルソンを睨み上げている。
観衆は「何とかしてくれ!」「やられちまうぞ!」「大和魂を見せろ!」「日本万歳!」と殺気立った声援をリングに飛ばしている。
「ウェル、ダァン、ディビッド! ファニーイエローモンキー、アイル、クラッシュユーッ!」
「うるせぇよ、スッタコ! 日本にいるなら日本語話しやがれ、この野郎が!」
数秒後、かあんと乾いた金属音が鳴り響いた。それと同時に、観衆の声がさらに大きくなった。
「キルザジャァーップ! キルユーゥッ! ドォントビー、ライク、ディビーッド!」
ウィルソンは、ゲンに向かって猛突進。筋肉質の白い身体を覆い被せるようにして、大きな拳をゲンの顔へ振り下ろしてきた。
「ゲ、ゲンーっ! よ、よけろぉ! く、食らったら、だ、だめだっぺーぇ!」
リング下で、観衆の数名に濡れた布を当てられていた島村は、叫んだ。
笑いながら突っ込んでくるウィルソンを前に、ゲンは鋭い目で睨んだまま、構えず動かない。
直後、リング全体にずしんと音が響き、四隅に張られた荒縄がぐわりと揺れた。
「ゲ、ゲン! ・・・・・・。・・・・・・あっ!」
腫れた目を見開いた島村。その視線の先には、左腕一本で相手の肘前をがっちりと受け、顔の寸前まで迫っていた拳には全く動揺せずに佇む、ゲンの姿があった。
「いつまでも、この国で王様気分になってんじゃねぇぞッ! えええぇーいああぁっ!」
怒ったゲンの右拳は、残像が見えるほどのスピードで、相手の顎先を下から打ち抜いた。
その威力たるや凄まじく、綿詰めは破れて飛び散り、たったの一発でウィルソンは白目を剥いてその場にどさりと力なく昏倒し、沈黙。
数秒の間を置き、観衆はみな、大歓声をあげた。リングへは、小銭や紙幣が雨あられのように飛び、「大和魂だ!」「アマテラスのご加護だ!」「いいぞ兄ちゃん!」「よくやったあんちゃん!」などの声が四方八方から降り注いだ。
連れの進駐軍たちは、沈黙し倒されたウィルソンを担ぎ、慌ててその場から去っていった。
「どうだや、島村? 言ったんべ、一撃でぶっ飛ばしてやる・・・・・・ってな!」
すかっと晴れた表情を島村に見せたゲンは、投げ入れられた金をかき集めてリングからひょいと軽やかに降りると、島村の肩を担いで、その騒ぎの中から去ってゆく。
「・・・・・・どうだや? 歩けっか、島村? ・・・・・・とりあえず、俺んちまで行って休むぞ!」
ゲンに肩を担がれた島村は、「こんな血まみれは、戦地以来だっぺな」と、笑った。
去ってゆくその二人の背中を、観衆の中から坊主頭の男が、じっと静かに見つめていた。