其の六 黄色い卵に緑の三つ葉
東京、日歩里の近くにある黄鶲谷地区。
この一角にあるオンボロ長屋で、ゲンは一人暮らしをしている。
「しっかしまぁ、人生っちゃぁ、先に何があるかわかんねぇもんだべ! なぁ、島村!」
古ぼけた丸ちゃぶ台を挟み、頬を赤らめたゲンは一升瓶をぐいと傾け、島村のガラスコップに酒を注ぐ。
「あわわ。おい、ゲン! こ、こぼれちまう! 入れすぎだっぺよ!」
「だーいじだっ! こんぐれぇは、飲めんべや! 太平洋大学空手道部時代を、思い出せ!」
「の、飲めっけどよ! もう、七杯目だっぺな! さすがに・・・・・・」
「いーいから! とにかく、せっかく来たんだ。飲もうや島村! 俺にぃ、付き合ってくんろ!」
狭い四畳半の部屋に、灯りは小さな橙色の裸電球一つだけ。
台所には、流し台の中に茶碗や歪んだ真鍮鍋がごちゃごちゃに浸されている。
「こんな暮らし、身体に毒だっぺ。・・・・・・以前の会社の宿舎だったら、もっといい住まいだったのによぉ。・・・・・・なぁゲン? やっぱり、会社に戻ってしっかりと・・・・・・」
「うーるせぇっての! 言ったんべ? 俺ぁ、あの会社とはソリが合わねぇんだよ」
「しかし、こんな生活では・・・・・・」
「しーんぱい、すんなや。いいか、島村? 俺ぁ、この東京で、素晴らしい出会いや縁ってぇもんをな、信じてもいいなぁと思ってきたんだよぉ・・・・・・」
「飲み過ぎだぜ、ゲン? 呂律が回ってなかっぺよ」
「毎日がよぉ、楽しいんだ。これからはよ! 俺ぁ、毎日、銀座街に通っても、いいんだぜー」
「何言ってんだよ。だいたい、ゲンは金持ってねぇだろ? 会社にいた頃、あんなに貯金もあったのにどうしたんだ? まさか、変な博打だのに使っちまったんじゃなかっぺな!」
「ばーかやろぅ。俺が、博打なんざ、やるかよぉ・・・・・・。・・・・・・実はなぁ、実家が空襲でやられちまってよ。・・・・・・家を建て直す、復旧費用に、仕送ってたんだよ」
「な! そ、そったら大事なこと、今まで一言も・・・・・・。だ、だいたい、ゲンの実家は田舎中の田舎だったはずだろ? そんなとこ、空襲なんかあったのか?」
「バカな敵兵がいたんだべな。・・・・・・軍需工場もでけぇ町場もねぇ田舎に、面白半分で焼夷弾をばらまきやがった敵機がいたんだよ」
「な、なんてこった! ・・・・・・それでゲンは、金が・・・・・・」
「まぁ、気にすんなや。もう、兄貴や親父が建て直した頃だろうしな」
「兄貴? おまえ、兄弟姉妹がいたんけ」
「ああ、いるよ。俺ぁ、六人兄妹の五番目だ。・・・・・・ただ、実家を継ぐ一番上の兄貴と俺、あとは年子の姉一人しか、生きちゃいねぇけどな・・・・・・」
「そうだったのか。・・・・・・ところで、おまえが五日前に銀座街で助けたお嬢さんってのは・・・・・・」
安い酒とつまみのメザシ三匹で、二人は夜の入りまで語り合っていた。
* * * * *
こつんこつんと、戸を叩く音がした。
「ごめんくださぁい。夜分にすみません」
部屋の中でゲンと島村は、その音の方へ目を向ける。
「おいゲン、誰か来たみたいだぞ。もう、夜八時も近いのに誰だっぺ?」
「どらっ、待ってろや島村。俺が出っからよ。おめぇは、飲んでろ!」
ゲンは土間の草履を履き、玄関の戸をからりと開けた。
「どちらさんだや・・・・・・って、あっ!」
「こんばんは。・・・・・・突然尋ねてしまって、すみません」
そこに立っていたのは、小さな風呂敷包みを抱えた、千草だった。
「ど、どうしてこんなとこへ! よ、よく俺んちがここだって、わかったなや?」
「東洋江建築を尋ねまして、いろいろと聞いて探しました。青川さんっていう方が教えてくれて」
「青川? ああ、俺の元上司の主任だわ。あーのやろう、余計なことしやがるなぁ!」
強い口調とは裏腹に、ゲンは顔がほころんでいる。
「誰だい、ゲン? ・・・・・・まさかそのお嬢さん、は・・・・・・」
「あ、お客様がいましたか。突然押しかけてしまって、迷惑・・・・・・ですよね」
「い、いやいや。気にすんなよ。こいつは島村大二郎。俺の、学生時代からの友人なんだ」
千草はゲンの後ろにいる島村へ、ぺこりと会釈をした。それに島村も、ぺこりと礼を返す。
「島村。これも縁だぞや! ちょうど、千草さんのことを話していたところだったんだよな」
「え? わたしのことを、ですか?」
「神宮司さん。ゲンのやつがね、なんだか、あなたのことをものすごく気に入・・・・・・」
「だぁーっ! し、島村! おめぇ、まだ酒飲み終えてねーぞ! さっさと飲んじまえ!」
話を遮られた島村は指で丸メガネをくいっと上げ、ゲンに向かってにやりと笑った。
「はいはい。邪魔はしねーよっ。・・・・・・。くそー。とんでもねぇ美人を捕まえやがったな、ゲンめ・・・・・・」
島村はなにか呟きながら、メザシを一匹ぱくりと頬張り、ぐいと酒を飲んでいる。
「ところで、今日はどうして俺んちに?」
「源五郎さん、数日お店に来てないから。あれからどうしたかな、と思いまして。ご飯・・・・・・きちんと、食べてます? もし、よろしければと思って、わたし、これを・・・・・・」
千草は風呂敷を解き、氷袋が添えられた小さな器を二つ手渡した。
「あ! これ、卵で作る・・・・・・何だっけ? とにかく、貴重な卵のうまいやつ! すごいねぇ!」
「ふふっ。『茶碗蒸し』ですよ、源五郎さん。わたし、得意なんです。お口に合うといいんですが」
「千草さんがせっかく作ってくれたんだ。うまくないわけなかんべ! ありがたくいただくよ!」
ゲンは茶碗蒸しを見て「ミツバがきれいだ」と笑っている。千草は「お早めにね」と言い、風呂敷を畳んで袖内へしまった。島村は飲みながら、二人の様子を微笑んで見つめていた。