其の五十一 ゲンの拳骨
「あれ・・・・・・? ここは? 俺ぁ、どうしてたんだっけ? ・・・・・・ん? 何だ、こりゃ?」
和服姿のゲンは、あぐらをかいて座り込み、大きな鏡のような水たまりをじっと見つめている。
「・・・・・・。そうけ・・・・・・。そういうことかや・・・・・・人生っちゃ本当に、いろいろあるもんだなや」
座っているゲンの周囲には、様々な種類の草が生い茂っている。
そこへ、さくり、さくりと、草を踏む足音が近づいてきた。
「独り言なんか呟いて・・・・・・。何を見ているんですか、源五郎さん?」
「千草? ・・・・・・ああ、やっぱり、そういうことけ。・・・・・・俺ぁ、もう、驚かねぇぞ!」
「ふふっ。わたしは、何も驚かすつもりはありませんよ? ・・・・・・ああ、見ていたのは、それ」
千草は、ゲンと一緒に、水たまりを見つめる。
「変な気分なんだ」
「なぜです?」
「なぜって、そうだんべよ。・・・・・・千草は、変に思ったり、わけわかんねぇと思わねぇのけ?」
「そう言われると・・・・・・。わたしだって、それは最初、驚きましたよ。何なのこれ、って」
「だろぉ? ・・・・・・なるほどなぁ。こういう感じだったんかや」
ゲンはボサボサ髪を手でわしゃわしゃと掻き、苦笑いをしている。
千草は水たまりの中をじっと見つめ、微笑んでいる。しかし、その目には、涙が滲んでいた。
「源五郎さん・・・・・・。長い間、おつかれさまでした」
「おいおい、千草・・・・・・。そりゃ、どっちに向かって言ってんだや?」
「ふふっ。・・・・・・その中にいる方と、わたしの隣にいる方の、両方に・・・・・・ですよ」
二人が見つめる水たまりには、ゆらりと波打つ水面の奥に、ベッドに横たわる高齢のゲンと、その横に立つ孫娘夫妻、そしてゲンと千草の曾孫にあたる女性二人が佇んで泣いているのが見える。
「百二歳ですってね? すごいですよ源五郎さん。わたしの倍近く生きたんですから」
「令和六年十月一日・・・・・・で終わっちまったみてぇだな。・・・・・・百二歳ねぇ・・・・・・」
ゲンは立ち上がり、大きく背伸びをして「ゆっくりこれから、酒でも飲むか」と、和服の袖をばさりと振った。千草は「令和って年号になってたんですね」と、ゲンの顔を見上げて言う。
「まさか夫婦で、同じ日が命日になるとはなぁ。・・・・・・千草。三十六年も待たせて悪かったな」
ゲンは笑顔で、千草に手を差し出した。千草はくすっと笑って、ゲンの手を取り立ち上がる。
「この拳で、わたしを守ってくれたのが始まりでしたね。あの日のことは、忘れもしませんよ」
ゲンは照れて「いいんだよ、忘れちまっても」と、千草の手を引き、水たまりから離れて一緒に歩いてゆく。二人の周りには、だんだんと、桜色の霧が広がってきた。
「辛いことや悲しいことも多かったが、俺ぁ千草と出会えて幸せな人生だった。・・・・・・そのきっかけになった、自分のゲンコツに感謝しなきゃいけねぇやな」
「ふふっ。そうですね。・・・・・・さぁ、みんな向こうで待ってますよ。行きましょう、源五郎さん」
千草はゲンの拳を絹のような両手で包み込み、二人は並んで霧の奥へと歩いていった。
ゲンの拳骨
終




