其の五十 早風館の看板を・・・・・・
さらに時は過ぎ、平成二十二年、晩秋。
「ほれぃ、突きのスピードが足りんぞぃ! 蹴りは頭の高さを変えずに、相手に悟られないように蹴らなきゃなんねぇべ!」
若い頃よりも背が縮み、白髪の老人となったゲンは、八十八歳の米寿を迎えてもなお、道場で弟子の指導を続けていた。
最盛期は道場がぎゅうぎゅう詰めになり、庭で稽古する門下生がいたほど賑わっていた早風館道場も、今所属しているのはたったの五人。小学六年生の女子一名、中学二年生の男子一名、高校三年生の男子三名。そのうち、高校生は部活の空手や学業が忙しく、道場には来ていない状態。
ゲンは道場内の神棚の前で腕組みをし、厳しい目で小学生と中学生それぞれの稽古を見ている。
「早乙女先生。移動基本、終わりました。・・・・・・今日はこのあと、形ですか? 組手ですか?」
小学生の弟子は、タオルで汗を拭きながら、ゲンの前へ寄ってきた。
「ああ、そうじゃのぉ・・・・・・。・・・・・・今日は、ちぃーっと、昔話に付き合ってくれんかの?」
「え? 昔話、ですか?」
「そう。・・・・・・おーい、お前もこっちで一緒に聞けい」
ゲンは中学生の弟子も側へ呼び、二人と一緒に床の間に座った。
「(今や、来る弟子は二人・・・・・・か。なんだか寂しくなったもんじゃのぉ・・・・・・早風館も・・・・・・。・・・・・・見てるか、千草、島村? これも、時代の流れなんかのぉ・・・・・・)」
島村は肝臓を悪くしたことがきっかけで寝たきりとなり、二年前、鬼籍に入ってしまった。
海道館道場も早風館道場と同じく、晩年は年々門下生が減っていき、島村が亡くなったことに合わせて今はもう閉館してしまった。
「せんせー、その話って長いんすか? おれ、塾があるんで先に帰りたいんすけどー・・・・・・」
「な、なぬ? そ、そうけぇ・・・・・・。塾じゃ・・・・・・しゃーなかんべなぁ・・・・・・」
「じゃ、さよならっす、せんせー。・・・・・・あー、あと、おれ、今月いっぱいで空手やめまーす」
「な、なぬっ! や、辞める・・・・・・」
「ええ! やめちゃうんですか! わたし一人になっちゃうじゃん・・・・・・」
中学生の弟子は「なんか、つまんねーしー」と、帰っていった。
ゲンは、はぁと溜め息をつき、がっくりと項垂れた。
小学生の弟子は、座ったまま茶帯をきゅっと締め直し、ゲンに「早乙女先生?」と声をかけた。
「あ、ああ、すまんの。・・・・・・みーんな、いなくなってしまうのぉ・・・・・・。高校生連中は部活の空手メインじゃからほぼ来ないし、来月からは、もう、お前だけしかいないとはのぉ・・・・・・」
「早乙女先生。わたしは空手、好きですよ。でも・・・・・・わたし一人かぁ・・・・・・。昔いたお姉さんたちも、もう、結婚しちゃってから・・・・・・来ないですもんねぇ・・・・・・」
「無理に来いとは言えんからのぉ・・・・・・。こりゃ、いよいよ腹を決めるようかの。・・・・・・さて、改めて話そう。・・・・・・本来の空手っていうのはスポーツではなく、命を守るための・・・・・・――――」
ゲンは気持ちを切り替え、これまで自分が歩んできた空手人生や、戦時中の経験、そしてあの水引屋事件のことなどを、昔話として目の前の弟子に話し、そして、最後にこう言った。
「・・・・・・――――この道場を開いたのは、わしの妻の言葉がきっかけだったんだがのぉ・・・・・・」
目の前の弟子は、「そうなんですか・・・・・・」と、寂しそうに視線を床に落とした。
「わしも年を取ったし、多くの弟子達に伝えるもんは伝えたと思ってる。・・・・・・そうだ、話は変わるが、お前んち、酒屋だったべ? わしゃ、年末年始に飲む酒は純米大吟醸が好きでの。何かいいのがあったら、次の最終稽古の時に持ってきてくれんかや? 小学生に頼む事じゃなかんべがな」
弟子は「ばーちゃんに言っておきますね」と、笑ってゲンに答えた。
* * * * *
しんと静まりかえった茶の間に、明かりが灯った。
ゲンは、ちゃぶ台の前にゆっくり座り、レンジで温めた茶碗蒸しとコップ酒を台の上へ置いた。
「・・・・・・一人になっちまったい。・・・・・・改めて感じるが、一人だと、この家も広く感じんだなや」
コップ酒を飲みながら、ゲンは、茶碗蒸しを見つめている。
ゲンの息子夫妻は平成九年の年末、暴漢に襲われる事件に巻き込まれ、二人とも還らぬ人となっていた。その後、この家に孫娘を引き取って二人で暮らしてきたが、数年前にその孫娘も結婚して家を離れ、隣の宇河宮市に新居を建て、そちらに移り住んでいた。
「この拳も・・・・・・小さく薄くなっちまったもんだべや・・・・・・」
ゲンは、コップを持つ自分の手を見て、独り言を呟く。そして、茶の間の隅にある仏壇の上へ視線を向けた。そこには、息子夫妻と、千草の遺影が飾ってある。
ゲンはコップ酒を一気に飲み干し、台所から一升瓶を持ってきた。
「・・・・・・わしの八十八年の人生で、千草と過ごしたのは、三十九年間・・・・・・だったか。・・・・・・たらればだんべが、今も生きてたら、こんなわしの姿を見て、何て言うかのぉ・・・・・・」
震える手で一升瓶を持ち、コップになみなみと酒を注ぐゲン。
飲んではまた注ぎ、注いでは飲み干し、千草の遺影に語りかけてはまた酒を飲む。
「・・・・・・千草が書いてくれた早風館の看板も、いよいよ、下ろす時が近づいてるみたいだべ。いろんな弟子がいたなぁ・・・・・・。・・・・・・千草が道場で昼間、茶会だの詩吟だのをやってた頃が、なんだか懐かしいわい。・・・・・・。・・・・・・懐かしい、本当に・・・・・・」
ゲンは、目元を掌でぐいと擦り、コップをたぁんと台の上へ置いた。そしてまた、残り少なくなった一升瓶を持ち、コップへ酒を注ごうと傾ける。
その時、振り子時計が、ぼぉんと鳴った。
どこからか、ひゅるりとすきま風が吹いてきた。
―――― そんな飲み方したら身体に毒よ? 今日はもう終わりですよ ――――
ゲンはぴたりとその手を止め、コップから視線をちゃぶ台の対面側へゆっくりと移した。
「な、なんじゃと?」
ゲンは目を疑った。一升瓶を持った手を止めたまま、何度も瞬きをしている。
「一夜で一升瓶を空にするおつもりですか? そんな飲み方いけませんよ、源五郎さん」
「ち、千草っ? 千草・・・・・・なのか!」
「違います」
「え! な、なんじゃて? じゃあ、誰・・・・・・」
「ふふっ。うそうそ。源五郎さんの妻の千草で、間違いありません。早乙女千草ですよ」
滲むゲンの視界には、遺影の姿と同じ、髪を結った着物姿の千草が映っていた。
「あーあ、ちゃぶ台の上にもこんなにお酒をこぼしちゃって。・・・・・・布巾、持ってきますからね」
千草は立ち上がり、台所から布巾を持ってきて、ちゃぶ台の上を拭いている。
「あら? 茶碗蒸しですか。源五郎さんが自分で作ったんですか?」
「あ、ああ。千草に教わってから、ほぼ、同じ味が作れるようになったからな・・・・・・」
「ふふっ。そうですか。・・・・・・でも、源五郎さんのより、わたしが作った茶碗蒸しのほうが、もっと繊細な感じかなぁ。・・・・・・やっぱり、元祖のわたしにはまだまだ及ばないね、源五郎さん?」
「な、なんだや! 千草・・・・・・言ったな! よーし、だったら、千草のと食べ比べすんべ! 今から作ってくれや! 久々に、元祖たる千草の茶碗蒸しを食べたいからのぉ!」
ゲンは笑いながら、千草に向かってそう言った。
「ふふっ。そうそう。源五郎さんはいつも豪快で元気よく、威勢がいい人じゃなきゃ。・・・・・・人生いろいろあるんですから、笑い飛ばして過ごしましょう。わたしは、いつでもそばにいますから」
千草はゲンに微笑みかけると、「身体に気をつけてね」と言い残し、玄関の方へ歩いてゆく。
「なに? どこに行くんだ千草? おい! そっちは玄関だべ。茶碗蒸しは・・・・・・?」
ゲンは千草を呼び止め追いかけようとするが、うまく立ち上がることができなかった。
* * * * *
スズメが庭の盆栽の横で、ぴきゅぴきゅと鳴いて遊んでいる。
窓から、冷えたすきま風がひゅるりと茶の間へ吹き込んでくる。
「・・・・・・むにゃ? ・・・・・・。・・・・・・はっ! ち、千草っ? 千草は?」
ゲンは赤い顔をして、がばりと身体を起こし、立ち上がった。
「・・・・・・ね、寝ちまってたんかや・・・・・・。ゆ、夢・・・・・・だったんけ・・・・・・」
ちゃぶ台の上には蓋の開いた一升瓶が倒れ、中の酒は全て零れて流れ、畳に染み込んでいた。
茶碗蒸しは、外された蓋の上に匙が丁寧に置かれ、中身は上辺の一部だけがほんの少しなくなっていた。それを見てゲンは、「笑い飛ばして、か」と呟いた。
その場でゲンは正拳突きを数発放った。拳はぴたりと止まらず、ふるふると揺れ動いている。
「・・・・・・わしの拳も・・・・・・衰えたもんだ。・・・・・・今年いっぱいで完全に、看板を・・・・・・下ろすべ」
ゲンは決心し、玄関の戸をがらりと開けて家の中に朝日を取り込み、ぱんと一つ柏手を打った。
平成二十二年、十二月。数多くの弟子を育てた早風館道場は、六十一年の歴史に幕を下ろした。




