其の四十八 花散る時
「みてみて、ばーちゃぁん! じーちゃんのまねぇ! えあ! えあ! ええい!」
「ふふっ。お上手、お上手。爺ちゃんの真似、上手ねぇー」
「うん! だって、まいにちみてるもん!」
「そうかいそうかいー。・・・・・・そうだ。そこでお靴脱いで、婆ちゃんとこへおいで」
「わぁい! ばーちゃんのおひざにすわるの、すきー」
「あ! これ、舐める? 甘くて美味しいよ。ドロップキャンディっていうんだよ」
「どろっぷ? あまいんなら、ほしいなー」
昭和六十三年、九月末日。
着物姿の千草は家の縁側に座り、孫を膝に乗せ、日なたぼっこをしている。
ゲンと千草にとって唯一の孫は、活発でおてんばな五歳の女の子。ゲンが可愛がる以上に、千草は孫娘を可愛がっていた。毎日のように、祖父母の家へアパートから歩いて遊びに来ているのだ。
「何だ、ここにいたのけ? 千草、呼んでたのに返事しねぇんだから」
「あら、それはすみません。気付かなかったわ」
「あ! じーちゃんだ! じーちゃん、こんどあたしにも、ちゃんと、からておしえてよー」
「はっはっは。そんなに空手が好きなんかー。こりゃ、将来、とんでもねぇお転婆娘になっちまうべなぁー」
「源五郎さんの孫ですもの。さっきも、あなたの空手の真似事をわたしに見せてくれたんですよ」
「ほぉ、そうけ! ・・・・・・どらっ、じーちゃんにも見せてみろや!」
「うん! えあ! えあ! ええい!」
孫娘は、ぴょこぴょことした動きで、ゲンの正拳突きや前蹴りを真似して手足を動かしている。
「何だそりゃ! まったくだめだ! こりゃ、じーちゃんが本格的に教えてやらんとだめだべ!」
「ちょっと、源五郎さん。子供のする事なんですから。そんな本気で強く言わなくても・・・・・・」
「だーめだ! 空手は始めの基礎が肝心なんだ! 変な動きのクセがついたら、それを抜くのに苦労することになんだ! 教えるなら、正確に教えてやんねぇとこの子が苦労すんだぞ!」
「だからって、そんな言い方したら・・・・・・。もう!」
すると、孫娘は千草を庇うように両手を広げて、二人の間に立った。
「な、なんだべ?」
「じーちゃん! ばーちゃんをいじめたら、だめ! からてやるなら、やさしくしないとだめなんでしょ! こわいのはだめなんでしょ? からてはまもるためのものって、じーちゃんいった!」
千草の前で、孫娘はゲンに向かってそう言った。
「こ、こりゃ参った。じーちゃんの負けだ。・・・・・・今の言い方、まるで千草の若い頃みてぇだ。俺の孫でもあるけど、千草の孫でもあるんだかんなぁ」
「お強い源五郎さんも、孫娘には敵わないですね。ところで、わたしを呼んでたのは・・・・・・」
「あ、そうそう! 作業着のベルトが無ぇんだよ。どこにやっちゃったんだや?」
「ベルトですか? いつも部屋のタンスの三番目に入れてるじゃありませんか」
「それが無ぇんだよー。今から『さやま』へ飲みに行くのに、これじゃズボンが落ちちまうべや。どこやっちたんだ、本当によぉー・・・・・・」
「はいはい。ちょっと待って下さいね。今、わたしが見てきますから」
千草は少し呆れたように笑い、ゆっくりと立ち上がって奥の座敷へ向かった。
数分後、千草は「ありましたよ」とゲンのベルトを持ってきた。
「ど、どこにあった?」
「洗面所の衣類置きのカゴに入ってましたよ。もう! 脱いで外したまま、入れっぱなしなんて」
「あ、ああー。・・・・・・忘れてた! 昨日、酔ってそのままにしちまったんだな」
「しっかりして下さいよ、まったくもうー。・・・・・・今から飲みに行くんじゃ、お夕飯はいらないですか? 今夜、茶碗蒸し作ろうかと思ってたんだけど・・・・・・」
「え! ほんとけ! ・・・・・・どうすっかな。さやまで飲むのと、千草の茶碗蒸し食うのと・・・・・・」
「源五郎さんには茶碗蒸しの作り方は教えてありますから、いつでも作れるでしょ? わたしが作らなくても、飲みに行って帰ってきたら自分で作れますよねーぇ?」
千草はやや声のトーンを低くして、笑いながらそう言った。
「あたし、ばーちゃんのちゃわんむし、すき! じーちゃんがたべないなら、あたし、たべるー」
「そうだねーぇ! じゃあ、爺ちゃん抜きで、茶碗蒸し食べようか」
「お、おいおいー。悪かったってよ。俺にも、茶碗蒸し・・・・・・」
「飲み屋で頼んだらどうですか? ふふっ」
「イジワルすんなよ、千草。・・・・・・きょ、今日は飲みに行くの、やめ! やめだ!」
「えー。あたし、じーちゃんのぶんのちゃわんむし、ばーちゃんとたべたいのにー」
ゲンは孫娘にそう言われ、千草に向かって「勘弁してくれよ」と苦笑い。
千草は「じゃあ、作りましょうかね」と笑って、台所へ向かった。
* * * * *
振り子時計が、ぼぉんと鳴った。
台所から、出汁の香りがふわんと茶の間へ漂ってくる。千草が得意な茶碗蒸しの香りだ。
「おとうさんとおかあさんが、そろそろ、おむかえにくるかなー」
「それより早く、ばーちゃんが茶碗蒸し作り終えるといいな。・・・・・・しかし、なんだか時間かかってんな。珍しく、失敗でもしたんか?」
ゲンは孫娘を膝に乗せ、茶の間で焼酎を飲んでいる。
「あたし、だいどころ、いってくるー」
「そうけ。ばーちゃんに、お腹空いて倒れちゃうって言ってやれー」
孫娘はゲンの膝から下り、台所へ駆けていった。
直後、「じーちゃん。ばーちゃん、ここでねてるよ?」という声が台所から届いた。ゲンは目をかっと見開き、慌てて台所へ吹っ飛んでいった。
「千草! どうした、千草ぁっ!」
台所で、千草は呼吸を乱し、血を吐いて倒れていた。ゲンが抱き起こして声をかけても、荒く乱れた呼吸音が聞こえるだけで、言葉は返ってこない。ほぼ、意識は無い状態だった。
ゲンは孫娘に「ばーちゃんを見てろ」と言い、慌てて茶の間の黒電話で救急車を呼んだ。
数分後、サイレンと共に回転する赤色灯が、早乙女家に近づいてきていた。
* * * * *
千草が救急車で緊急搬送されてから一日後。日付は変わり、十月に入っていた。
ゲンは、孫娘を連れた息子夫妻とともに、地元の総合病院の病室で千草の側にいた。
担当した医師は、この数分前に、ゲンへこう告げた。
―――
早乙女さんの肺はもう、かなり弱っており機能していない状態です。
正直、もう手の施しようもありません。
これは急性呼吸窮迫症候群の一つと思われ、その中でも早乙女さんは重篤症状です。
今こうして、まだ、辛うじて息をしているだけでも奇跡的かと。
余命幾許も無い状態です。今夜が峠でしょう。日を越せるかどうかも・・・・・・
―――
その医師の言葉が、何度もテープレコーダーのように、ゲンの頭の中に響いていた。
「千草、どうして急に・・・・・・。いつの間に、こんな具合になってたんだや? 知らず知らずのうちに無理してたんかや? まさか、こんなことに突然なるなんて・・・・・・」
目に涙を滲ませたゲンは、次第に呼吸のペースを弱めてゆく千草の手を握り、何度も「目を覚ましてくれ千草」と、囁くように呟く。
「千草は、俺なんかよりも強い人間だべ? 何事にも物怖じしねぇ、強い女性だべや。・・・・・・これしきのこと、吹っ飛ばして、また起き上がれんだべ? ・・・・・・なぁ、千草? ・・・・・・千草っ?」
その時、ゲンは立ち上がった。千草は目だけ動かし、ゲンの方を確かに見ていたのだ。
言葉を発することもできなくなった千草の呼吸音は次第に小さくなり、少しずつ、弱ってゆく。
ゲンはもう、何も言わずに千草の目を見て、その手を両手で包んでいた。
すると千草の目から、一筋の涙がつうっと輝く線を描いて、枕へと流れ落ちた。
―――― 今までありがとう、源五郎さん。わたし、とても幸せだったよ ――――
その瞬間、ゲンの耳には確かにそう聞こえていた。千草の呼吸は止まっているのに。
息子夫妻は涙を流して嗚咽していた。孫娘は状況がわからず、きょとんとしている。
「千草・・・・・・。・・・・・・ありがとうはまだ先だべよ。目を・・・・・・覚ましてくれ。なぁ、千草・・・・・・」
ゲンは、千草と出会った最初の瞬間から今日の今日までを、頭の中で思い返していた。
昭和六十三年十月一日午前六時五分。千草は肺の病により、五十八年の生涯を閉じたのだった。




