其の四十七 源五郎と千草、二人の時間
ゲンと千草の夫婦生活は、近所の人がみな羨むほど、幸せで順風満帆だった。
建ててから一ヶ月後に、早風館道場には少しずつ人が集まり、空手に興味を持った人間がゲンに教えを請い始めた。
道場で稽古がない時間の昼間は、そこで千草が町内会の女性たちと華道や詩吟を楽しみ合い、最後にお茶を点てて小さな茶会を開いていた。
夜はゲンが厳しく空手を指導し、昼は千草が楽しく女性陣を集める早風館道場は、近所でも有名な「仲間作りの場」となっていた。
「ほれぃ! 受け方が甘い! そんなんじゃやられちまうぞ! もっと力入れて!」
こういった激しい声が響くのが、夜。
「ここの部分は、この花を添えて生けると、艶やかさの中に儚さも出ますよ?」
こういう和やかな声がするのが、昼。
どちらの時間も、早乙女家に集まった人はみな、その時間を充実させていた。
* * * * *
それから二年後の、昭和二十六年の春。ゲンと千草の間に、長男が誕生。
それに合わせて、家の茶の間には千草が「どうしても買いたい」とゲンに頼んで買った、シンプルな振り子時計が架けられた。
「この振り子の音が、わたしたち家族の時を刻む音になりますように。・・・・・・ねっ?」
「そうだなー。しっかし・・・・・・俺が親父ねぇ・・・・・・。まだ実感がどーも湧かねぇなー」
「ふふっ。・・・・・・そのうちちゃんと、自然に実感が湧きますよ。わたしだってまだ、ちゃんと母としての働きが出来るかどうか、不安ですから・・・・・・。けほ、けほ・・・・・・」
「お、おい、だいじかよ千草? 産後の肥立ちがまだ良くねぇのけ?」
「そういうわけじゃないと思いますけど・・・・・・。大丈夫ですよ。ちょっと咽せただけ」
「それなら・・・・・・いいんだけどよ・・・・・・」
「ふふっ。家族が増えて、これからやることがたくさんあるんです。少し咽せたくらいでワタワタしてたら、やってけませんよ源五郎さん? ねっ?」
「ま、まぁ、そーだな。・・・・・・。なぁ千草。俺ぁこの子にはよ、諍いも戦も無ぇ、和やかな人生を歩んで育っていってほしいと思ってんだ。苦しい思いは、俺らの代で終いにしたいからな」
「それは、わたしも思います。わたしたちは、あの戦争や水引屋事件のようなことを体験したからこそ、この先の世代には、あんな思いは絶対にさせたくありませんもの」
「それとよ・・・・・・俺ぁ、この子へ俺の空手を継がせるかどうかは、迷ってんだよ、今」
「あら、どうして?」
「何つーか、無理にやらせてもなぁ・・・・・・って気がしてよ。俺とは別な道も、有りな気がしてよ」
「なら、それでいいんじゃありませんか? この子が大きくなって、源五郎さんの空手に自分から興味を持ったら、その時に教え始めればいいんですよ」
「うん、そうだなぁ。・・・・・・じゃあ、興味を持たなかったら、それで良しってことにすんべ」
振り子時計の音が、ぼぉんと鳴った。
息子を抱く千草とその横に座るゲンは、静かに時計を眺めて微笑んでいる。
* * * * *
さらに時は過ぎ、昭和五十八年、二月。あっという間に三十二年の月日が流れていた。
ゲンは千草と、銀座街の一角を歩いている。
昭和三十年代過ぎから、戦後の日本は急速な経済成長を遂げ、東京もゲンと千草が出会った頃とは比べものにならないほどの発展を見せていた。
「東京も、ものすげぇ久しぶりに来たけど・・・・・・いやぁ、こりゃもう別な街だなや!」
「そうですねぇ・・・・・・。わたし、十七で初めてこの東京に出てきた頃は、こんなビル群なんかありませんでしたよ。まだ大空襲の瓦礫が、ところどころにあって・・・・・・」
「時間の流れっちゃ、すごいもんだなや・・・・・・俺たちにも、間もなく孫が生まれるわけだ・・・・・・」
二年前、ゲンと千草の一人息子も結婚して所帯を持ち、一旦、早乙女家を出ていた。今はすぐ近くのアパートで暮らしている。息子の嫁は臨月を迎え、間もなくゲンと千草に初孫誕生の時が近づいていた。
「あの銀座街が、こんな煌びやかになっているんですものねー」
「そうだなぁ。・・・・・・。・・・・・・なぁ、千草。水引屋の方、行ってみっけ?」
「え? 水引屋はもうありませんよ? 別なビルが建っているみたいですけど・・・・・・」
「無くったっていいんだよ。・・・・・・行ってみよう、千草」
「あ! ちょ、ちょっと。源五郎さん!」
ゲンは千草の手を引いて、元の水引屋が建っていた方へ向かい、通りの角を曲がった。
そこは、あの昭和二十四年の風景とは、全く違う銀座街。
五十メートルを超す大きなビルが立ち並び、車の往来も激しく、電車や地下鉄の音が鳴り響く。
「・・・・・・時間の流れっちゃ・・・・・・大したもんだ、ほんとによぉ・・・・・・」
「道を行き交う人々も、あの頃とは表情も身なりも違います。時は流れたんですね、源五郎さん。・・・・・・懐かしいね。わたし、源五郎さんと初めて会ったのは、クリーニング屋さんへ水引屋の服を受け取りに行った時でしたね。怖かったですよ。進駐軍に囲まれちゃって」
「あのバカクリーニング屋の下田も、あれから実家の宇河宮に帰ったって、風の噂で聞いたな」
ゲンの脳裏には、初めて千草と出会った時のことが思い起こされていた。
水引屋跡地に建っているビルをしばらく見つめ、ゲンは「早く初孫産まれねぇかな」と言って、また千草の手をとって地下鉄駅の方へゆっくり歩いていった。
二人の足下には、冷たい風に乗った枯れ葉が数枚、かさりかさりと吹き流れていった。




