其の四十六 空手道場 早風館
それから一ヶ月後の昭和二十四年十月中旬過ぎ、晴れて二人は夫婦となった。
父の甚兵衛から譲り受けたあの土地に、ゲンは柏沼中学時代の旧友を集め、東洋江建築時代に身に付けた知識と技術で、小さな家と離れを建てた。
「・・・・・・よぉし、これで、よかんべ! ・・・・・・できた! 完成だ!」
ゲンは家の玄関横に、「早乙女」と書かれた小さな表札を掲げた。
「ふふふっ。素敵! 正真正銘、源五郎さんが建てた家・・・・・・ですねっ!」
「いーや、俺だけじゃねぇぞー」
「わかってますよぉ。源五郎さんのお友達も、大勢手伝って下さいましたし」
「いやいやー、そういうことじゃねぇべ。それとは別に、この家は、俺だけで建てたんじゃねぇ」
「んー?」
「ほれ。今、俺が掲げた、これ」
ゲンは千草の手を引き、表札を指差した。
「表札が、何か? これを端材から削り出したのも、源五郎さんですよ?」
「だーかーらー・・・・・・。表札の早乙女っつう字! これ書いたのは、千草だんべな!」
「あー、そういうこと! ふふっ! 確かに。じゃあ、源五郎さんとわたしが建てた家、ですね」
「そうそう。俺ぁ字がうまかねぇかんな。だから、千草に頼んだんだよ」
「そこまでヘタじゃないでしょうにー。・・・・・・わたし、早乙女家に嫁いで良かったー」
「そ、そうけ! いやぁ、嬉しいねぇ!」
「だって、『神宮司』って書くのと『早乙女』って書くのとじゃ、画数も書き方も違うしー」
「え! そ、そんだけの理由なんかよ!」
「ふふっ。嘘ですよー。・・・・・・源五郎さんと同じ早乙女姓になって、わたし、新しい自分になったような気がしています。神宮司千草から、早乙女千草になったんですから。蝶になって空に羽ばたいたような気分です」
千草は両手を広げ、笑顔で青空を仰ぎ見ている。
「蝶ねぇー。何だかんだで、千草はやっぱり普通の女子なんだなー」
「ええ? 源五郎さん、何ですかそれー。ちょっとぉ! わたしはいつだって普通ですけど?」
「あ、いやいや、そーじゃなくってよぉー」
「じゃあ、どういう意味です? こら! 言ってみなさいよー。源五郎さんってば!」
千草は着物の袖を捲り、笑いながらゲンの脇腹をばしばしと叩いている。ゲンは「悪かったってば」と笑って、その俊足で千草から離れる。千草は「足早くてずるい」と、頬を膨らませている。
「あ、そうそう。ねぇ、源五郎さん。こっちの離れを道場にするんでしたよね。道場って確か、看板を掲げるんでしょう? その字もわたし書きますよ? ・・・・・・確か『早風館』でしたね」
「え! ほんとけ! じゃあ、千草にそれも頼むべ! いやぁ、ありがてぇ!」
ゲンは家の横の小屋から、看板の土台になる板を持ってきた。そこに千草は墨と筆を使ってゆっくりと文字を書いてゆく。
二十分ほどして、千草は「できましたぁ」と、看板の字を書き上げた。道場名である「早風館」の書体は、表札とは違った太く力強い書体。
「源五郎さんが初めてわたしを守ってくれたときの印象を、書体に乗せてみたんです」
「そ、そうなんけ! いやぁ、こりゃいいや! ・・・・・・実はな、早風館ってぇ道場名の由来は、俺と千草なんだよ。それも先に伝えてあげりゃよかったな」
「え? わたしも? ・・・・・・あ! 早乙女の頭文字なんですね!」
「おぅ。そういうこった。早の部分を千草の草にして読んでも、そうふうかん、になるぞ?」
「あはは。草にしたら、なんだか武道場って感じがしませんよー」
「ま、そりゃそうか。・・・・・・ありがとな、千草! これで、俺の道場がついに始まるんだな!」
ゲンは千草の書いた看板を、道場の入口横に掲げた。
千草は「源五郎さんもまた、新しい出発ですね」と微笑んでいる。
* * * * *
「結婚式に行けなくて悪かったっぺ、ゲン。親父がいよいよ危ない状態になってなぁ・・・・・・」
その夜は、茨城から島村が尋ねてきていた。
「気にすんな島村! それは仕方なかんべ! むしろ、こっちに来てたら逆に親不孝モンだべや」
「そうですよ。気にしないで下さい。こうして、今日、来て頂けたことがわたしも源五郎さんも嬉しいんですから」
千草は島村のぐい飲みに、徳利で酒を注ぐ。
「そう言ってもらえっと、おらも、助かっぺ・・・・・・。いやぁ、それにしても、道場付きのいい家を建てたなぁ、ゲン! 空手道場 早風館・・・・・・か! いいね!」
「まぁーなーっ! まだ、全然弟子はいねーんだけどさ。・・・・・・ま、そのうち近所の人がぽつりぽつり来たら、空手っちゃこーいうもんだというのを説明して、募集かけてみっからよ」
「こりゃ、おらも早く道場作んねぇとだめだっぺね。・・・・・・おらはゲンみてぇに、器用でねぇかんなぁ。大したことは教えらんねぇかもな。愚直な基礎稽古と基本組手程度しかー・・・・・・」
「なーに言ってんだ島村! おめぇは太平洋大学で一番の稽古の鬼! 組手だって俺の次に強かったんだべな! だーいじだ! 何とかなっから! おめぇの弟子は、強くならぁ!」
ゲンは上機嫌で島村の肩をばしんばしんと叩いている。
「もう、源五郎さん? ちょっと飲み過ぎよ。そんなに叩いたら、島村さんが痛くて、かわいそうよ・・・・・・。けほっ、けほっ・・・・・・」
「だーいじだ、千草! 島村は強ぇから! ・・・・・・って、どした? 咳き込んで。だいじかや?」
「え、ええ。大丈夫。ちょっと、急に咽せただけですから・・・・・・」
千草は「奥で、うがいしてきます」と席を立った。
ゲンと島村はそのまま、酒を飲み交わして様々な空手談義に華を咲かせていた。




