其の三 路地裏での出来事
派出所を出たゲンは、浴衣の袖に両手を埋め、ふらりふらりと銀座街を歩く。
道には車や都電が走り、多くの露店が軒を並べる。街路樹の柳は風に葉を靡かせ、薄手の着物や洋服を身に纏った人々が行き交っている。
「(何が健全な民主主義の国だ。俺だって、好きでヤケ酒飲んでんじゃねぇってんだよ、金藤!)」
ふと、ゲンは視線を斜め上へ向けた。正面に見える「銀座街水引屋」を静かに見つめている。
「(水引屋、か・・・・・・。東洋江建築にいた頃の、最後の作業現場だったな。・・・・・・しかしこう改めて見ると、六階建てだけあって、でけーわなぁ)」
しみじみと、水引屋を見上げて佇むゲン。
大きな建物が並ぶ銀座街の中でも、水引屋ビルはひときわ大きい部類の建物だ。近代技術を用いた西洋風なモルタル製の六階建て。屋上には大きなアドバルーンが上げられる広場もあり、この界隈では銀座街光和、樅屋、五越屋と並ぶ、四大商業店舗ビルの一角だ。
水引屋の建物工事は、戦後すぐに東洋江建築が主軸となって行い、工期中はゲンや島村も工員として現場で働いていた。
「(・・・・・・ま、俺が東京で仕事した最後の現場だ。このぐれぇ立派じゃなきゃ、やった甲斐がねぇってもんだべ!)」
ゲンは赤らめた頬に笑窪を浮かべ、また、立ち止まっていた足を進める。その足裏から、道と草履が擦れてしゃりりと音がする。
「さて、と。・・・・・・家に帰ってもつまんねぇけど、持ち合わせもあんまり無ぇしなー。まだ陽も高いし、何すっかな・・・・・・」
財布の中身を数え、路上でゲンは唸って悩んでいる。
すると、ゲンの耳に、微かな声がどこからともなく届いてきた。
「ん? ・・・・・・何だべ? ・・・・・・何か聞こえた。・・・・・・今のは、叫び声・・・・・・か?」
ゲンは耳元に手をあて、その声の方向を探ってみた。
道を行き交う人波、往来する車、走りゆく都電。それらの音が混じり合う中で、ゲンはその声の方向を聞き当てた。
「あっちだ! 何だべ!」
屋台や露店の間を走り抜け、ゲンはその声の方へと向かっていった。
* * * * *
「へ、へっへへ! こ、これでいいですかい、進駐軍のダンナ様ら。上玉を、連れてきやしたぜ」
「HAHAHAッ! OK! OK! GAHAHA! グッジョブ! グッジョブ!」
「「「「「 ベリィ、キュート! ナイスガール! HAHAHAHA! 」」」」」
「こ、ここここ、こんなにくれるんでっか? ありがとぉごぜぇやす! こりゃいいや!」
屋台と露店の間にある路地奥で、髭面の中年男が進駐軍の数名から金を受け取り笑っている。
進駐軍の男たちは品の無い笑みを浮かべ、髪を結った小柄な着物姿の女性を囲んでいるようだ。
「や、やめて下さいっ! ・・・・・・わたしは、服を受け取りにきただけなのに! どうしてなの、クリーニング屋さん! 服の話があるというから付いてきたのに。なぜこんなことをするんです!」
女性は、進駐軍の男たちの間から、髭面の男に向かって叫んだ。
「す、すすすす、すみませんなぁ。お嬢さん。わ、悪く思わんでくれたまえ! こ、ここ、こうでもしないと、うちは金が足りず・・・・・・。し、進駐軍のダンナなら、少し我慢すれば、お嬢さんにもいい金をくれると、お、思いますぜ。・・・・・・へ、へっへへ!」
「お金がないからって、こんな非道いことをなさるのは、違うと思います! 助けて下さい!」
「へ、へっへへへ! で、では、あっしはこれで。お嬢さんが、ダンナらを満足させれば、べ、別に何も無かったことになりやすぜ。あっしは、店を畳んで、この金持って田舎に帰りやすんで」
クリーニング屋という髭面の男は、進駐軍に渡された金を握りしめ、涙目になった女性には目もくれずに大通りへ向かって走り出した。
しかし、髭面の男は数歩進んだ後、「ひでぶ」と呻いて大きく吹っ飛び、元の場所へ戻ってきた。
「な、ななななな、何だ! お、おい! お前か、あっしに向かって・・・・・・」
吹っ飛ばしたのは、駆けつけたゲンだった。転がった髭面の男のもとへ、ゲンは強い足取りで詰め寄って胸ぐらを絞り上げた。男の袖には、茶色い糸で下田晴男という刺繍が施されている。
「黙れこの野郎! おめぇ、進駐軍にあそこのお嬢ちゃんを売ったんか? 答えろこら!」
「し、しししし知らんな! ・・・・・・ん? あ、あんた! さ、早乙女源五郎じゃねーかっ!」
「あぁ? なんだ、おめぇは! ・・・・・・って! おめぇ、あの部隊で一緒だった、下田かっ?」
ゲンは絞り上げた下田の胸ぐらを緩め、片眉をぴくりと上げた。
「さ、ささ早乙女! 離してくれよ。あっしだって、この戦後の貧しい中でやってかなきゃなんねぇんだよ! な、南方防戦四〇八部隊の同朋だろ? こ、ここは、見なかったことに・・・・・・」
「・・・・・・ふっざけんじゃねぇぞ! この、ろくでなしが!」
ゲンは下田を思いきり殴り飛ばした。下田は「もげら」と呻き、また転がる。
「なにが同朋だ馬鹿野郎! おめぇ、あの戦地から生きて帰ったくせに、生きる価値のねぇ真似しやがって! あのお嬢ちゃんを進駐軍に売るたぁ、性根が腐りきってんぞ! この恥知らずめ!」
「し、しししし知らんな! だ、だいたい、もう戦争は終わったんだ! ここからはな、生きてくことに全てを費やす意味がある! 金だよ、金! いくら帰還兵で生きて帰ったとしても、金が無きゃ死んじまうんだ。・・・・・・生きるためなら、あっしは、何だってやってやらぁ!」
「おめぇはどうやら、生きて帰らねぇほうが良かったみてーだな! 日本男児の風上にも置けねぇ大馬鹿野郎のろくでなしだべ! 下田晴男、おめぇは俺が叩きのめす!」
「や、ややや、やんのか早乙女! あ、あっしだって、帝国軍で覚えた必殺の技が・・・・・・」
抵抗しようとした下田だが、次の瞬間、ゲンの凄まじい鉄拳の一撃が炸裂。下田は「ぶべら」と潰れた呻き声を上げ、どんがらがっしゃんと露店のゴミ置き場まで転がっていった。
下田はそのまま、腐った生ごみを頭からかぶり、泡を吹いて気絶。
「今日は何だか、酔いも半端だ。俺ぁ苛立ってしょうがねぇ! ・・・・・・おぅ、アメ公ども! おめぇら、そのお嬢ちゃんに触ろうもんなら、俺がぶっ飛ばす。覚悟は出来てんだべなぁッ!」
額に青筋を立て、進駐軍の男たちにゲンは刃物のような視線をぶつけた。
「「「「「 ワッツ? Are・・・・・・you・・・・・・crazy ? HAHAHAHA! 」」」」」
進駐軍の男たちは、ゲンの顔を見て大笑いしている。
その男たちの隙間から、和服姿の女性は怯えた震える目でゲンの方を見つめている。
* * * * *
男たちは、指や首をゴキゴキと鳴らしながら、ゲンの方へブーツの足音を響かせ近づいてくる。
「い、いけません! 無理です! 危ないです! かなうわけありませんよ!」
女性は必死に、ゲンに向かって叫んだ。
「お嬢ちゃん、こっから俺の声、ちゃんと聞こえっけ?」
ゲンは、男たちから視線を外さないまま、女性に向かって話す。
「は、はい。聞こえています」
「俺ぁ、今からこいつら全員ぶっ飛ばす! 俺が一人目をぶっ飛ばした瞬間、大通りへ向かって全力で走って逃げな!」
「えっ! で、でもっ、それではあなたが・・・・・・」
「いいから、いいから。俺なら平気だべ。・・・・・・いいかい? 一人目をぶっ飛ばしたら、だぞ!」
「あっ、あなたは大丈夫なんですか! あ、相手の人数は・・・・・・」
「平気だっつってんべな! とにかく、お嬢ちゃんには、ちいっと刺激が強ぇことが起きる。目の毒だから、必ず、俺が言った機会を逃さず、逃げんだかんな!」
女性は風呂敷に包まれた着物をぎゅっと抱え、黙ってゆっくりと、頷いた。
「「「「「 ジャァップ! キルザジャァーップ! 」」」」」
男たちは殺気立った笑みを浮かべ、ゲンに向かって一斉に襲いかかってきた。
「金藤はああ言ってたけどよぉ・・・・・・俺ぁ、イライラがおさまらねぇんだよぉッ!」
ゲンは向かってきた男の腹へ重い前蹴りを入れると同時に、その顔面へ固い拳を叩き込んだ。
「今だ! お嬢ちゃん、逃げろ!」
「は、はいっ!」
女性はゲンと男たちの横を、全力で駆け抜け、大通りの人混みの中へ消えていった。
「・・・・・・よし。・・・・・・さぁ、おめぇら! こっからの俺は、もっと容赦しねぇぞ! 覚悟しろ!」
「「「「「 ジャアァーップ! 」」」」」
ゲンは殴りかかる男の横へ身を移し、「えぇい!」という気合いと共に脇腹へ鉄拳を叩き込む。
掴みかかってくる男には、浴衣の袖でばさりと視界を遮ると同時に、金的を蹴り上げる。
鉄板入りのブーツで蹴ってくる男には、その膝頭へ鉄拳を叩き込んで膝の皿を割った。
ゲンに向かっていった仲間が一瞬のうちに倒れるのを見て、他の男たちは狼狽えている。
「よそ見なんかしてるヒマなんぞ、あんのかぁーっ! えええぇーーいああっ!」
ゲンはばさりばさりと袖や裾を翻し、残った男たちの顔や首、腹や背中へ、次々と突きや蹴りを叩き込んでゆく。
「キッ・・・・・・キルザジャァーップ!」
「うるせぇってんだ、こんちくしょうが!」
最後の一人が放ってきたパンチをかい潜ると同時に、鈍い破裂音が響いた。ゲンは男の背骨まで突き抜くほどの威力を持った鉄拳を叩き込んでいたのだ。数秒後、ずずんと音を立て、最後の男も気を失ってその場で昏倒した。
「・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・だーめだ。ぶっ飛ばしたけど、気分が晴れねぇやー・・・・・・」
ゲンはくしゃくしゃと頭を掻くと、草履の鼻緒を指でくいっと直し、大通りへと歩いていった。
* * * * *
「はぁ、はぁ・・・・・・。ま、待って下さい」
「ん?」
ふらりふらりと通りを歩いていたゲンの後ろから、呼び止める声がする。
「ああ、さっきのお嬢ちゃん! ・・・・・・あいつらは、もう追ったりはしてこねぇ。安心しなー」
「あ、あのっ・・・・・・。先程は申し訳ありませんでした。わ、わたし、逃げてしまって・・・・・・」
「んー? あー、いいんだよ。俺がお嬢ちゃんに、逃げろって言ったんだかんな。はっはっは!」
「あ、危ない場でしたのに、本当に助かりました! あの、お、お礼を・・・・・・」
「いーってことよ。俺がたまたま、あの場を通りかかって、たまたまあいつらをちょこんと叩いたら、みーんな寝ちまっただけ。なーんにもしてないかんね。・・・・・・お礼なんて、いんねーべよ」
「い、いえ! 助けていただいたのに、何も心返しができないなんてのは・・・・・・」
ゲンは笑って、女性の肩をぽんと叩き「お気持ちだけで結構」と言ってまた歩いてゆく。
「あ、待って下さい。あの、せめて、お名前を・・・・・・」
「んー? 俺ぁ別に大したやつじゃねぇべ。名乗るほどのモンじゃございやせん、ってねぇー?」
くるりとゲンは振り向き、ケラケラ笑う。直後、女性の持っている風呂敷の隅に目を向けた。
「あれ? それ・・・・・・水引屋って書いてあんなぁ・・・・・・。お嬢ちゃん、水引屋の関係者なんけ?」
「え? あ、はい。水引屋の六階にある茶寮『百合紅葉』に勤めております」
「ほーぉ! そうかい、そうかい。水引屋の百合紅葉ねぇ! お嬢ちゃん・・・・・・なんて名だや?」
「え? わたしは・・・・・・。・・・・・・べ、別に、名乗るほどの者ではございませぇん・・・・・・ってね?」
「なっ! ・・・・・・あぁ! さっき俺がああ言ったの、根に持ってんだべ! まいったなこりゃ!」
「ふふっ。・・・・・・面白い方なんですね。・・・・・・わたしは、千草です。神宮司千草、と申します」
「千草さん、か。・・・・・・あ! 俺は源五郎! 早乙女源五郎ってんだ! ゲンって呼ばれてる」
「源五郎さん、ですね。・・・・・・改めまして、この度は危うきところを、ありがとうございました」
二人はその後雑談を交わし、大通りから水引屋を見上げながら、にこっと笑い合っていた。