其の二十六 夜汽車の中で
定期的に響く、がたこんがたこんという振動。
網戸からは、石炭の燃える香りと、その煤煙がうっすらと入ってくる。
ゲンは夜汽車に揺られ、故郷の栃木へと向かっていた。
「・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・。」
ただ静かに、ゲンは窓の外を眺めている。しかし外は暗く、黒く、何も見えない。
何かは必ずそこにあるのだろうが、夏の夜闇は景色を全て包み込み、ゲンの目にはただ黒々とした夜の色だけが入ってくる。
ゲンの膝の上には、小さな風呂敷包みがある。その中には、あの、千草の茶碗蒸しが一つ、入っている。駅へ見送りに来た千草が、夜汽車の中で小腹が空くであろうゲンへ、渡してくれたのだ。
「ほんとに、腹減っちまったよ・・・・・・。・・・・・・まだまだ、時間かかりやがるなぁ」
汽車は埼玉県を抜け、茨城県の一部分を通り、やっと栃木県へと入った。
時折、遠くにぱっと紅色の明かりが丸く広がった。どこかで花火を打ち上げているようだ。
ゲンは、風呂敷包みを解いて、茶碗蒸しを取り出した。
「いつも気ぃ使わせちまって悪いなぁ、千草さん・・・・・・。美味しく、いただくかんね」
添えられた小さな匙で、茶碗蒸しを掬うゲン。
薄黄色のぷるりとした中身が、てろんと揺れる。
仄かな椎茸由来の出汁の香りが、ふわんと鼻へ届く。
ゲンはそれを、ぱくりと頬張る。
次の瞬間「美味いなぁ」と勝手に声が出る。
そしてまた、匙でもう一口、同じように掬う。
頬張るとまた、「美味いんだよ」と声が出る。
向かいの客は「変わった奴だな」という目で見ている。
立っている客も「変な野郎だな」という目で見ている。
それでもゲンは、千草の茶碗蒸しを何度もぱくりと頬張り「美味い」と呟く。
室内灯に、二匹の蛾がぱたりぱたぱた飛んできた。
くるりと回り、それは網戸の縁に留まった。
客の誰かが「ごほん」と咳き込んだ。どこかから「まだ着かねぇのかー」という声も聞こえる。
ゲンは最後の一口を、ごくりと飲み込んだ。
「・・・・・・あぁ、美味かった! もう一椀、食いてぇくらいだぜ!」
千草の茶碗蒸しを食べ終え、ゲンはまた窓の外をずっと眺めている。真っ暗なのに。
「・・・・・・。・・・・・・小さな家と、道場・・・・・・ねぇ」
ゲンの頭の中に、ある光景が広がった。小さな家と植木や盆栽の置かれた庭。そしてその家に併設された板の間の道場。そこで幾人もの弟子が、ゲンに空手の手解きを受けている。
そんなことを想像しているうちに、汽車はだんだんとゲンの故郷へ近づいていた。