其の二十一 銭湯前にて、甘い香り
翌日、ゲンは東京郊外にて、日雇いの現場作業員として働いていた。
戦後から四年経つが、まだ、空襲による家屋の残骸が残っている場所があり、その撤去工事がたまに行われているのだ。
「ふぅーい。・・・・・・もうじき終わりだぁな! よし、残りも、やっちまうかぁ!」
汗だくになって、ゲンは砂袋や瓦礫片をせっせと運んでいる。
「おい、日雇いのおめぇ! これ何とかどっかにどかせねぇかぁ! とにかく邪魔でしょうがねぇ! 道具持ってきて、早くどけてくれや!」
つるはしを担いだ別な作業員が、ゲンに向かって叫んだ。
作業場のあちこちに焼け残った柱の残骸や板きれ、ブロック塀だったと思われる瓦礫があり、それが作業員の動きをすこぶる悪くしていた。
「・・・・・・はいよ! 今、どけっから!」
ゲンは重さ四十キロはあろうかという砂袋を放り投げ、その瓦礫の前へ立った。
大きく、ゲンは息を吸い込んだ。
「・・・・・・えええぇーーーーいああぁっ!」
他の作業員の目には映らないほどの速さで、ゲンは瓦礫に向かって突きや蹴りを放った。
炭化した柱は黒い粉となって四方へ吹き飛び、跡形も無く砕け散った。
ブロック片たちは、掌に収まるほどの大きさに細かく砕け飛んだ。
色の変わった板切れは、ばきりと大きな音を立て、雑誌ほどの大きさに次々と割れていった。
「こんなもんで、いいかや?」
ゲンはふうと小さく息を吐くと、作業員たちに爽やかな笑顔を見せた。
集まってきた作業員たちからは次々と、「どうやったんだ?」という声が上がる。
「・・・・・・日当の二百二十円よりも働いてんな、俺ぁ。ま、生活費と汽車代が稼げりゃいいけどよ」
手ぬぐいで額の汗を拭った源五郎は、また、砂袋を担いで作業を続けた。
* * * * *
「お待たせ、源五郎さん」
この頃、ゲンは夕方に荻乃湯で千草に会うことが多くなっていた。
今日も、日雇い労働を終えたゲンは、荻乃湯に入る際にばったりと千草に会ったのだ。湯から上がってそのまま帰ってもよいのだが、ゲンは必ず、長湯気味の千草を外で待って、一緒に歩きながら帰るようになっていた。
「千草さんは、荻乃湯が気に入ったんだなや? 何回も同じ時間帯に会うもんなぁ」
「ふふっ。だって、人も多すぎないし、いい感じなんですもの」
「そうけぇ。・・・・・・あ! そうだ!」
「?」
ゲンは千草と銭湯前の縁台に腰掛け、浴衣の袖から小さな四角いブリキ缶を取り出した。
「今日は仕事帰りに、こんなものを買ってみたんだよ」
「あ! これ、知ってます! ドロップキャンディっていう、飴ですよね?」
「知ってたんけ! そうそう。俺ぁ飴玉は滅多に食べねぇんだが、千草さんが喜ぶと思ってよ?」
「うれしいー」
「ちょっくら、待ってろ。いま、開けっかんね」
ゲンは缶の蓋を、親指でぱかりと開けた。
缶を振ると、しゃかりしゃかりと中で音がする。果物のような芳醇な香りと、薄荷のすうっとした良い香りが二人の鼻を楽しませた。
千草は、にこっと笑って左手をゲンの前へ出した。
「ん? あ、そうけ。・・・・・・ええと、果たして何味が出っか・・・・・・さーぁ、お楽しみだんべ!」
「ふふっ。わたし、イチゴ味がいいなぁー」
ゲンは缶を振り、中のドロップを一つ取り出した。それは桜色をしている。
千草の掌の真ん中にそれを置き、にこっと笑う。
「わぁ。当たった! 源五郎さん、すごいね。わたしがイチゴが良いって言ったら、本当にそれを出してくれた」
瞳をきらりと輝かせ、千草はゲンへ清らかな笑顔を見せる。
ゲンは、その顔を直視出来ず、頬を赤らめて縁台横の睡蓮鉢へ目を向けてしまった。
「甘くて、おいしいー。・・・・・・(かろかろ)・・・・・・果物みたいですー」
ドロップを舐める千草は、まるで子供のよう。
「あ、あのさ、千草さん?」
「はぁい?」
「お、俺なんだがよ、来週からちぃーっと、その、北柏沼の実家へ行かなきゃなんなくなってよぉ・・・・・・。しばらく、会えなくなっかもしんねぇんだ。悪いな、千草さん」
千草の口の中で、イチゴ味のドロップは動きを止めた。
瞬きを何度もする千草は「どうしてご実家に?」と問いかけた。
「あー・・・・・・。何か、いろいろ土地絡みのことで、兄貴や親父とやんなきゃなんねぇことがあんだわ。以前、二人が東京に来てたのも、その話を俺とするためで・・・・・・。その、家のことも・・・・・・」
「・・・・・・。・・・・・・源五郎さんは・・・・・・ゆくゆくは、故郷に戻ってしまう予定・・・・・・なのですか?」
右頬の奥にドロップを入れたまま、千草はじっとゲンを見つめている。
「う、うまく言えねぇんだけど、どうなるんだんべなぁ。ちぃっとまだ、先は未定・・・・・・かな」
何も言わずに千草は視線を落とし、「どうしようかな・・・・・・」と、小声で独り言を呟いた。
「だ、だいじだ! 別に、これっきり今生の別れってわけじゃねぇべ? は、はははは!」
空気を察したゲンは、明るく振る舞った。しかし千草は、明らかに表情に雲がかかっている。
数秒後、千草は縁台から立つと、ゲンに「帰りましょうか」と、笑顔で手を差し伸ばした。