其の二 戦地の記憶と、八つ当たり
次の日、ゲンは銀座街の一角にある派出所にいた。
「ムチャクチャですってぇ、先輩! 進駐軍とケンカするなんて、正気の沙汰じゃありませんよ。何でぶっ飛ばしたりなんかしたんですか! 手ぇ出したら、とにかく、ダメなんですからね!」
「だから何度言ったらわかんだ、金藤! おめぇ、いつからそんな朴念仁になった! 警察っつう公僕になってからか? とにかくダメですーなんてだけの理屈で、俺が納得なんかできっかや!」
「先輩っ! 時代はもう戦時中じゃないんですよ? 昭和二十年を以てこの国は、争いや戦いの時代が終わったんですから。・・・・・・気持ちはわからなくもありませんが、とにかくダメなんです!」
金藤という警官は調書を書き終えると、はぁと溜め息をついた。
「おい、金藤? 俺ぁ学生時代に言ったよな? 空手やってるからには、何があっても負けちゃなんねぇって! 売られた喧嘩は買うし、喧嘩するからには、絶対に相手に負けちゃなんねぇってのが太平洋大学空手道部の、隠れた掟だったべな!」
ゲンは、頬を赤らめたまま、金藤の前で机をばんと平手で叩いた。
「先輩ぃ・・・・・・。それは本官も覚えてますが、街中は大学の空手道部内じゃないでしょ?」
「そりゃ、そうだけどよ・・・・・・。あのな、金藤? 世の中は、法や理屈だけで物事回ったら、そりゃぁ苦労はなかんべな。でもよ、それだけじゃあ、解決できねぇことはいっぱいあんだぞ!」
「はいはい。わかりましたよ。・・・・・・まったく。調書をうまく誤魔化すのだって、一苦労なんですからね? 恩義ある先輩だから特別に、大事にならないようにしてるんですよ! いいですか?」
金藤は調書の綴をぱたりと閉じ、書棚にしまった。
「まっ、とにかく助かったよ金藤! しっかし、昨日の進駐軍との件を関係のねぇヤツが通報してくるたぁ、ふざけてやがんなぁ! おかげで俺ぁ、いい迷惑だぜ。なんつぅ世の中だべ!」
「いい迷惑なのはこっちですよ。まったくー。・・・・・・去年から調書に何回『早乙女源五郎』って名前を書いたと思ってるんですか? 本官は調書を書くたびに、仕事が増えるんですからね」
金藤は欠けた湯飲み二つと、急須に淹れた安い茶を持ってきて、ゲンの前へ置いた。
「俺のおかげで、金藤の手柄が増えてるってことかぁ!」
「そうはなりませんよ。はー。・・・・・・先輩? 昼間っからこんな酔っ払ってちゃいけません。もう終戦から四年も経つんです。・・・・・・いつまでも、引きずっていては・・・・・・」
茶を注ぐ金藤の言葉を聞き終える前に、ゲンは目をかっと開いて、また机をばしんと叩いた。
「ばぁっかやろう! 金藤! 四年『も』じゃねぇべ! 『まだ』四年だ! 何言ってやがる!」
「あ、あっぶないなぁ! 茶がこぼれるじゃないですかぁ」
「こぼれちまえ! おめぇ、あの東南アジアの島で味わったこと、忘れたんじゃねぇべな!」
ゲンは金藤の腕をぐいと引っ張り、ぎらりと目を光らせた。
「いたた。やめて下さいよ、先輩。・・・・・・忘れるわけないですよ。あの、戦地のことは・・・・・・」
「太平洋大学空手道部出身者が、たくさんいた部隊だった。島村に金藤、他にも大学の後輩たちがたくさん同朋として戦った。・・・・・・なぁ、金藤。・・・・・・生き残れたのは、わずかだったなぁ」
「・・・・・・はい。本官は先輩や島村先輩とともに、生きて帰ってこられて、本当に良かったです」
「良かぁねぇ! そんな軽々しく言うな! ・・・・・・あの部隊で生きて帰ってきたのは、ごく一部なんだぞ! 散った奴らもあの時、一緒に帰りたかったはずだべ! 良かったなんて、言うな」
「す、すみません。・・・・・・隊長も副隊長も、他のみんなも・・・・・・やられてしまったんでしたね」
ゲンは金藤の腕をばっと振り放し、湯飲みの茶を一気にぐいと飲み干した。
「金藤。百の敵兵を相手にしたあの時・・・・・・。俺には空手があったから、何とか生き抜けたんだ」
「・・・・・・そうですね。当時、本官が足を撃たれた際、先輩が敵兵の銃弾をかい潜りながら、突きや蹴りで相手を次々と倒していった姿には、感動したものです」
ゲンは窓の外を見つめたまま、金藤の話を聞いている。
「金藤。・・・・・・あの時おめぇが撃たれた足は、さすがに・・・・・・もう?」
「ええ。このとおり、すっかり良くなっておりますよ。だから、警官の仕事をしていられる」
「そうか。・・・・・・だが、傷は残ってんだろ?」
「まぁ、それは・・・・・・」
「ちゃんとした医者が島にいりゃ、傷も残らなかった。・・・・・・まともな医療体制はなく・・・・・・」
「我々はあの島で、玉砕してでも敵兵の進行を食い止めよ・・・・・・というだけの命令でしたから」
「そういや島村のやつはあん時、俺が突っ込んでいくのを叫んで止めようとしやがったなぁ」
「あれは仕方ありませんよ。島村先輩は、先輩と一番仲深き人なんですから。そりゃあ・・・・・・」
金藤は言葉を止め、ずずりと茶をすすった。
「だがよ、金藤。・・・・・・あの直後、俺らの部隊は爆撃機からの攻撃を受け、壊滅しちまった」
「・・・・・・ええ」
「忘れもしねぇよ、まったく! 部隊の仲間らは敵機の機銃で粉々になり、爆撃で吹っ飛ばされ、生き残ったのは数人・・・・・・。おめぇや島村は、吹っ飛んだあと首近くまで土に埋まってよ・・・・・・」
「先輩がいなかったら、本官も島村先輩も多分あのまま、島の肥やしになってました」
「俺ぁあん時、泣きながら血まみれで周囲を駆け回ったよ。吹っ飛んだ仲間らを見つけて起こそうとしたが、ダメだった。息はあるが上半身しか無ぇやつもいたし、隊長や副隊長は足しか残ってなかった。・・・・・・こういうのを、地獄って言うんだべなと、思ったよ」
ゲンは派出所の柱にがつんと拳をぶつけ、眉間にしわを寄せて震える。金藤は茶をすすりながら窓の外を眺めている。
「昨日は・・・・・・そんなことをした国の連中に、喧嘩売られたんだ。黙ってられっかってんだよ!」
「わかりましたよ先輩。落ち着いて! ・・・・・・でも、ダメなんです。敗戦国の日本は、帝国主義ではない健全な民主主義の法治国家になったんです。ヤケ酒飲んで喧嘩したら、罪に・・・・・・」
「敗戦じゃねぇ! いいか、金藤? 敗けるってのはな、完全に心が折れきった後に・・・・・・」
「先輩。戦中の苦しさや悲しみは、酒では癒えません。・・・・・・もう、本官も二十六歳。先輩も二十七歳になるのですから、落ち着いた道を歩みませんか? ヤケで暴れても、先へは進めませんよ」
金藤はどこか涼やかな笑顔を見せ、ゆったりとした口調でゲンにそう言った。
ゲンはしばらく黙ってから、「茶をもう一杯よこせ」と、金藤へ湯飲みを手渡した。