表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゲンの拳骨  作者: 糸東 甚九郎(しとう じんくろう)
18/51

其の十八  洗い髪は石鹸の香り

 日歩里駅から南東に二百メートルほど歩いた場所にある、銭湯 荻乃湯(おぎのゆ)

 ゲンは首に濡れ絞った手ぬぐいを巻き、夏の夜空を見上げている。


「すみません。お待たせしました。・・・・・・あー、気持ちよかったぁ」


 銭湯の暖簾をぱさっとかき分け、しっとり濡れた湯上がり髪の千草が出てきた。


「熱くなかったけ? ここ、たまにすげぇ熱いんだよ」

「ううん。大丈夫。良い湯加減でした。むしろ、少し温いくらいで、ちょうどよかったです」

「それならよかった。ま、ごく稀に、温めの日もあんだわ」

「源五郎さんは、いつもこの銭湯に?」

「ああ、そうだね。黄鶲谷から近いし、湯船もでっかくて、気分がいいかんねぇ」

「そうなんですか。この銭湯は初めてでしたが、わたしも、気に入りましたよ」

「お、そうけ! そいつぁ尚良し、だ! 男湯も女湯も、浴場の富士山と松原の絵が、何とも言えねぇよなー。それもまた、俺は気に入っててね」

「ふふっ。なんで源五郎さん、女湯のほうまで知ってるんですかぁ? あれぇー?」

「え! い、いやいや! 番頭のおやじに聞いてっからだよ! べ、別に変なこたぁないかんね」

「あはは! 冗談ですよぅ」

「ち、千草さんー・・・・・・っ」


 千草はゲンをからかうのが楽しいようだ。若草色の手ぬぐいで髪を拭くと、「源五郎さんって、面白い人ですよね」と屈託のない笑顔を見せた。


「今日は暑くて汗もかいちゃったから、源五郎さんにこんないい銭湯を教えてもらえて、本当によかったです。ありがとうございます、源五郎さん」


 ふわりと漂う、湯上がり特有の石鹸の香り。

 ゲンは、美人画からそのまま出てきたかのような千草の姿を直視できず、顔を赤くして明後日の方向へ目を向けた。

 煤汚れた木製の電柱についた、笠付きの電灯。

 二人がその下を通ると、電灯の光で、白い千草の素肌と赤いゲンの顔が同時に浮かび上がった。


「あれ? どうかしました? 顔、赤いですね?」

「べ、別にこんなの、だいじだ! ちょぉーっと、熱い湯でのぼせたんかもしんねぇだけだべ」

「温めの湯だったのに?」

「え? あ、ああ。そーだなや。温め・・・・・・だったけど、温めの熱い湯だったかも」

「ふふっ。ねぇ、源五郎さん? 何言ってるかよくわかりませんよ? あはは!」


 千草を、ゲンは横目でちらりと見た。

 笑う口元に当てた手は、すらりと白魚のような指。白い肌の顔は、頬が(とき)(いろ)にうっすらと色づいている。そんな千草を、ゲンは直視できない。見ようとすると、なぜか、身体の芯が熱くなる。

 ゲンは歩きながら「参ったなこりゃ。何とかしろや」と、自分自身にぽそりと言った。


 * * * * *


「千草さんは、水引屋の社員寮に住んでるんだっけか? あの茶寮のお二人も同じなんけ?」

「そうです。広末(ひろすえ)(ちょう)にある女子社員用の寮に。・・・・・・同期のかつ子やしま子とは別棟なんですが」

「そぉかぁー。水引屋の寮じゃ、さぞ立派な住まいなんだべなぁー」

「いえいえ、そんなー・・・・・・。ごく普通の、何の変哲も無い部屋ですよぉ?」

「そのごく普通ってぇのが、俺からすりゃ、上等中の上等なんだと思うけどなー。俺のオンボロ長屋みてぇに、あちこち雨漏りしたり、カマドウマがぴょんぴょこしねーんだろうしさ?」


 並んで歩きながら聞くゲンの話に、千草は笑っている。


「いや、ほんとだって! 雨降りゃぴっちょんぽっちょん、土間にはぴょんすかぴょんぴょこ!」

「いやだぁ、源五郎さん。なんか、その、言い方がおかしくって! 笑っちゃいますよぉー」

「今度、雨っぷりん時、うちに来てみなよ? ぴっちょんぽっちょん、ぱっちょんぴっちょん、そりゃもう、雨受け皿や茶碗が足んなくってよー」


 不思議な動きで、ゲンは雨漏りの音を表現。その奇妙さに、また、千草は大笑い。

 二人はそんなやりとりをしながら、恩賜(おんし)(こう)(えん)を歩いていた。


「そういえば千草さんは、実家を出て東京に来たのは、いつ頃だったんだや? 最近なんけ?」

「いえ。十七歳の時なので、二年前ですね」

「十七歳ぃ? その・・・・・・女子一人で東京に出るのは、反対されたりしなかったんけ?」


 千草は「んー」と少し考える素振りを見せてから、ゲンへ答えた。


「実は・・・・・・両親と大喧嘩して家を出たんで、勘当同然の状態なんです。わたし、神宮司家では跡取りの一人娘ってわけでもありませんし。ちょうど良い口減らしになった感じじゃないですか? わたし、兄妹の中で身体は丈夫ではないですし、実家は厄介払いできて良かったと思いますよ?」


 やたら明るく笑ってそう言う千草に、ゲンは「そんなことは・・・・・・」と、表情を少し変えた。


「それに・・・・・・わたし自身、早く自立して強くならなくちゃいけない、って思ってましたから」

「そ、そうなんけ。・・・・・・いや、もう十分強いよ千草さんは。立派に自立してんべな。俺なんか、早乙女家にとっちゃ、未だに厄介者でめんどくせぇ奴なんだろうし。・・・・・・まだまだだな、俺ぁ」

「厄介者? ふふっ。・・・・・・じゃあ、わたしと源五郎さんは、おんなじですね?」

「お、同じ・・・・・・? そうけぇ?」

「そうですよー。わたしも神宮司家ではお荷物ですし、源五郎さんも早乙女家の厄介者だと言うんじゃ、おんなじです。・・・・・・似た者同士、類は友を呼ぶ・・・・・・ってこと、ですかね?」

「似た者同士・・・・・・ねぇ? 俺なんかに千草さんが似てもらっちゃ、困んだけどなぁ・・・・・・」


 千草はゲンの横で、夜風を受けてさわさわと音を奏でる桜の青葉を見て、「いい風」と呟く。

 靡く千草の黒髪からは、風に乗って石鹸の香りが漂う。

 ゲンは少し間を置いて「まだ・・・・・・散歩したい気分だなや」と独り言を漏らすと、千草は数回瞬きをしてから、ふふっと笑い、「じゃあ、わたしももう少し」と小声で言った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
結構ラブラブ状態だ!? 源五郎、早く職を見つけてプロポーズしろいっ!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ