其の十八 洗い髪は石鹸の香り
日歩里駅から南東に二百メートルほど歩いた場所にある、銭湯 荻乃湯。
ゲンは首に濡れ絞った手ぬぐいを巻き、夏の夜空を見上げている。
「すみません。お待たせしました。・・・・・・あー、気持ちよかったぁ」
銭湯の暖簾をぱさっとかき分け、しっとり濡れた湯上がり髪の千草が出てきた。
「熱くなかったけ? ここ、たまにすげぇ熱いんだよ」
「ううん。大丈夫。良い湯加減でした。むしろ、少し温いくらいで、ちょうどよかったです」
「それならよかった。ま、ごく稀に、温めの日もあんだわ」
「源五郎さんは、いつもこの銭湯に?」
「ああ、そうだね。黄鶲谷から近いし、湯船もでっかくて、気分がいいかんねぇ」
「そうなんですか。この銭湯は初めてでしたが、わたしも、気に入りましたよ」
「お、そうけ! そいつぁ尚良し、だ! 男湯も女湯も、浴場の富士山と松原の絵が、何とも言えねぇよなー。それもまた、俺は気に入っててね」
「ふふっ。なんで源五郎さん、女湯のほうまで知ってるんですかぁ? あれぇー?」
「え! い、いやいや! 番頭のおやじに聞いてっからだよ! べ、別に変なこたぁないかんね」
「あはは! 冗談ですよぅ」
「ち、千草さんー・・・・・・っ」
千草はゲンをからかうのが楽しいようだ。若草色の手ぬぐいで髪を拭くと、「源五郎さんって、面白い人ですよね」と屈託のない笑顔を見せた。
「今日は暑くて汗もかいちゃったから、源五郎さんにこんないい銭湯を教えてもらえて、本当によかったです。ありがとうございます、源五郎さん」
ふわりと漂う、湯上がり特有の石鹸の香り。
ゲンは、美人画からそのまま出てきたかのような千草の姿を直視できず、顔を赤くして明後日の方向へ目を向けた。
煤汚れた木製の電柱についた、笠付きの電灯。
二人がその下を通ると、電灯の光で、白い千草の素肌と赤いゲンの顔が同時に浮かび上がった。
「あれ? どうかしました? 顔、赤いですね?」
「べ、別にこんなの、だいじだ! ちょぉーっと、熱い湯でのぼせたんかもしんねぇだけだべ」
「温めの湯だったのに?」
「え? あ、ああ。そーだなや。温め・・・・・・だったけど、温めの熱い湯だったかも」
「ふふっ。ねぇ、源五郎さん? 何言ってるかよくわかりませんよ? あはは!」
千草を、ゲンは横目でちらりと見た。
笑う口元に当てた手は、すらりと白魚のような指。白い肌の顔は、頬が鴇色にうっすらと色づいている。そんな千草を、ゲンは直視できない。見ようとすると、なぜか、身体の芯が熱くなる。
ゲンは歩きながら「参ったなこりゃ。何とかしろや」と、自分自身にぽそりと言った。
* * * * *
「千草さんは、水引屋の社員寮に住んでるんだっけか? あの茶寮のお二人も同じなんけ?」
「そうです。広末町にある女子社員用の寮に。・・・・・・同期のかつ子やしま子とは別棟なんですが」
「そぉかぁー。水引屋の寮じゃ、さぞ立派な住まいなんだべなぁー」
「いえいえ、そんなー・・・・・・。ごく普通の、何の変哲も無い部屋ですよぉ?」
「そのごく普通ってぇのが、俺からすりゃ、上等中の上等なんだと思うけどなー。俺のオンボロ長屋みてぇに、あちこち雨漏りしたり、カマドウマがぴょんぴょこしねーんだろうしさ?」
並んで歩きながら聞くゲンの話に、千草は笑っている。
「いや、ほんとだって! 雨降りゃぴっちょんぽっちょん、土間にはぴょんすかぴょんぴょこ!」
「いやだぁ、源五郎さん。なんか、その、言い方がおかしくって! 笑っちゃいますよぉー」
「今度、雨っぷりん時、うちに来てみなよ? ぴっちょんぽっちょん、ぱっちょんぴっちょん、そりゃもう、雨受け皿や茶碗が足んなくってよー」
不思議な動きで、ゲンは雨漏りの音を表現。その奇妙さに、また、千草は大笑い。
二人はそんなやりとりをしながら、恩賜公園を歩いていた。
「そういえば千草さんは、実家を出て東京に来たのは、いつ頃だったんだや? 最近なんけ?」
「いえ。十七歳の時なので、二年前ですね」
「十七歳ぃ? その・・・・・・女子一人で東京に出るのは、反対されたりしなかったんけ?」
千草は「んー」と少し考える素振りを見せてから、ゲンへ答えた。
「実は・・・・・・両親と大喧嘩して家を出たんで、勘当同然の状態なんです。わたし、神宮司家では跡取りの一人娘ってわけでもありませんし。ちょうど良い口減らしになった感じじゃないですか? わたし、兄妹の中で身体は丈夫ではないですし、実家は厄介払いできて良かったと思いますよ?」
やたら明るく笑ってそう言う千草に、ゲンは「そんなことは・・・・・・」と、表情を少し変えた。
「それに・・・・・・わたし自身、早く自立して強くならなくちゃいけない、って思ってましたから」
「そ、そうなんけ。・・・・・・いや、もう十分強いよ千草さんは。立派に自立してんべな。俺なんか、早乙女家にとっちゃ、未だに厄介者でめんどくせぇ奴なんだろうし。・・・・・・まだまだだな、俺ぁ」
「厄介者? ふふっ。・・・・・・じゃあ、わたしと源五郎さんは、おんなじですね?」
「お、同じ・・・・・・? そうけぇ?」
「そうですよー。わたしも神宮司家ではお荷物ですし、源五郎さんも早乙女家の厄介者だと言うんじゃ、おんなじです。・・・・・・似た者同士、類は友を呼ぶ・・・・・・ってこと、ですかね?」
「似た者同士・・・・・・ねぇ? 俺なんかに千草さんが似てもらっちゃ、困んだけどなぁ・・・・・・」
千草はゲンの横で、夜風を受けてさわさわと音を奏でる桜の青葉を見て、「いい風」と呟く。
靡く千草の黒髪からは、風に乗って石鹸の香りが漂う。
ゲンは少し間を置いて「まだ・・・・・・散歩したい気分だなや」と独り言を漏らすと、千草は数回瞬きをしてから、ふふっと笑い、「じゃあ、わたしももう少し」と小声で言った。