其の十六 早乙女家の男子
夕暮れ時。カラスが朱色の空に数羽飛んでいる。
ほろ酔いで顔を赤くしたゲンは、ふらりふらりとした足取りで、長屋へ帰ってきた。
「まったくよぉ・・・・・・。青川のバカさ加減には、呆れちまうぜ・・・・・・」
隣の部屋の住人は、「早乙女君よぉ、良い酒だったけぇ?」と、笑ってゲンへ声をかける。
ゲンは「東北の美味いやつだったんだ」と笑って返した。
「さぁて・・・・・・。銭湯でも行って、また湯上がりの一杯でも・・・・・・。・・・・・・んっ?」
玄関の戸に手をかけたゲンは、ぴたりと動きを止めた。
家の中が、裸電球の橙色にうっすら染まっているのだ。
「ありゃ? 明かり点けたまま出てきちまったんけ? ・・・・・・。・・・・・・あ! もしや!」
思わず、ゲンの顔が綻んだ。
「千草さんが来てくれてんのかも! また、茶碗蒸しでも持ってきてくれたんかな?」
浴衣の襟元と帯をささっと直し、ゲンは笑みを浮かべて戸を勢いよく開けた。
「たーだいまぁ! 千草さん、お待たせし・・・・・・」
「あ! やっと帰ってきやがった」
「どこをほっつき歩ってやがったんだ、でれすけ(バカモン)が!」
言葉を詰まらせたゲンは、石のように固まった。家の中には、ゲンよりもやや年上に見える七三分けの男性と、和服を纏った高齢の男性が座っている。
「不用心にもほどがあるぞ、源五郎ぉ。防犯意識が低いんじゃないのかい?」
ゲンに顔立ちの似た七三分けの男性は、居間からゲンを見て、笑顔でそう言った。
「源五郎! その顔は何だ! 貴様また、真昼間から酒なんぞ飲みおって! 恥を知れ、恥を!」
和服姿の高齢男性は、ちゃぶ台をばしんと叩き、厳しい口調でゲンに向かってそう言った。
「お、親父に、兄貴・・・・・・っ?」
てっきり千草が家に来ていたのだと思い込んでいたゲンは、狼狽えた。そしてがっくりした。来ていたのは、栃木の早乙女本家にいるはずの兄、優一郎と父の甚兵衛だったのだ。
「どうしてもこうしてもないだろう。源五郎。お前、いつの間に東洋江建築を退社したんだ?」
「え! 何でそれを?」
「何で・・・・・・って、親父とこうして東京まで出てきたから、お前の会社にも挨拶をと思って寄ったんだよ。そうしたら、『早乙女源五郎は解雇され、もうおりません』と言われてな!」
「源五郎! 貴様、懲戒による解雇ということではないか! この大馬鹿者! 会社の上司を殴って解雇などと、早乙女家の名に泥塗るバカな真似を! あってはならんことをしおって!」
「あのよぉ、親父? 早乙女家の名なんて言ったって、もう、江戸時代みてぇな世の中じゃねぇべよ! そーんな、無理に名前に拘んなくたってよかんべなぁ・・・・・・」
「でれすけ! だいたい貴様は、二百五十年続く下野の武家である早乙女家の男として、この儂が柔道や剣道を仕込んでも全く精は出さず、仕方なく東京に出したら空手などという琉球の野蛮な喧嘩道具なんぞ覚えおってからに! 優一郎を見ろ! 柔道も剣道もしっかりと修錬し、今や立派に公務で県に奉仕しとるのだぞ! 喧嘩道具の空手なんぞを生兵法で覚えた貴様とは、違うぞ!」
また、甚兵衛はちゃぶ台をばしんと叩いた。
「生兵法だ? 野蛮な喧嘩道具だと? 親父・・・・・・いくら親子でも聞き捨てならねぇぞ、今の!」
ゲンはぎゅうっと、右の拳を強く握った。
「見ろ! それだ! 貴様は昔から気が短く、我慢が出来ず、すぐに喧嘩沙汰だ! 父親に向かって何たる口の利き方だ! 二十七になるというのに、全くなっとらん! 忍耐が足りんのだ!」
「うるせぇ! 何しに来たんだよ親父も兄貴も! 俺にわざわざ、こんなくだらねぇ説教するために来やがったのか!」
「おいおい、源五郎! 気を静めろよ! 僕も親父も・・・・・・」
「俺ぁ、俺なりにこの地でそれなりに楽しくやってんだ! ガキじゃねぇんだから、ほっとけ!」
「黙れ! 源五郎! 儂が優一郎とこうして貴様のところへ来たのは、貴様がそれなりに我が家の再建に尽くした礼も込めて、貴様に北柏沼の土地を与える話をしに来たのだ! それを、こんな無礼な態度で迎えるとは、なっとらん!」
「無礼もクソも、急にあんな剣幕で話を始められちゃ、こーなるに決まってんべよ! だいたい、わけわかんねぇべな! いきなり、土地をくれるだの何だのって言われても・・・・・・っ!」
ゲンは玄関横の柱を、どかりと蹴った。「何なんだよ!」と、苛立ちを隠せない様子だ。
「まぁまぁ、親父も源五郎も・・・・・・。悪かったよ、僕も。話題の切り出し方が、まずかったな」
優一郎は甚兵衛とゲンの間に入り、両者を宥めた。
ゲンは土間の木箱に腰掛け、じろりと甚兵衛の方へ目だけ向けた。
「・・・・・・で? どういうことなんだよ? 北柏沼の土地っちゃ何だや?」
「親父。僕から説明してやってもいいかな?」
「構わん。このバカ息子に、よぉくわかるように言ってやれ、優一郎! 儂はもう疲れた!」
「やれやれ。・・・・・・いいか、源五郎? 昔、うちから離れたところに、ろくに使っていない雑種地があったのを覚えているか?」
「あ? そんな場所あったかや? ・・・・・・雑種地ぃ? ・・・・・・。・・・・・・あー、あれか? たまにおふくろが勝手に一部を畑にしてた、野良土地け?」
「そう、そこだ。・・・・・・実はその雑種地、はじめは売りに出そうという話で進めていたんだが、お前のことも考えてな。所有権を親父からお前に切り替え、そこの土地を源五郎名義にすれば、お前が好きに使える土地になると考えたんだ。・・・・・・敷地は約六十坪あるかないかだが」
「六十坪弱かよ・・・・・・。・・・・・・俺がそっちに戻ったところで、本家は兄貴が跡継ぎだから入れねぇしなぁ。・・・・・・要はその土地に、勝手に家でも建てて住め・・・・・・ってか?」
「ゆくゆくはお前も単独で家を持ちたいだろ? その場合、早乙女家の分家ということになるがな。お前は建築を学んだし、小さな家程度なら自分でも建てられるだろう?」
「た、建てられっけどよぉ・・・・・・。・・・・・・今更、そっちに出戻るってのもなぁ。東京はいろいろあって賑やかで、おもしれーしなぁー・・・・・・。酒もうめぇし、日雇いでさえ金が栃木よか良いんだ」
「酒の話は置いといて、だ。・・・・・・とにかく、その土地はお前に渡すことになると思うから、どのようにするか考えてくれ」
「こんな話を急に持ってこられて、すぐに二つ返事でポンポンと事が進むわけねぇだろ?」
「それは、そうだ。・・・・・・今日や明日にとは言わん。ただ、それについては来月には正式に登記なども進めたいと、僕や親父は思っててな?」
「来月ぅ? ・・・・・・って、もう、九月まで二週間もなかんべよ! ふざけんなよ兄貴!」
「ふざけてなんかないさ。・・・・・・だいたいお前、仕事もなくなって、昼間から酒飲んでるような生活を、東京でずっとしてゆくつもりかい? お前が栃木に戻ったら、親父やおふくろは、お前に見合ういい人を勧める気でもいるんだ。だから、ここらでもう、居を構えて所帯を・・・・・・」
優一郎が話を進めてゆくと、ゲンは掌をばっと開いて、話を遮った。
「なんだ? どうした?」
「兄貴。・・・・・・いま、俺に見合ういい縁談・・・・・・って言ったか?」
「ああ、言ったよ」
「悪ぃが・・・・・・それぁ無しにしてくんねぇべか?」
優一郎と甚兵衛は同時に「なぜだ?」とやや大きめの声を出した。
「・・・・・・俺ぁ今、どうにもこうにも気になってる人がいてよ。すぐにその人と結納だとかっつぅ関係性じゃねぇんだが、どうせなら、その人と縁ありゃいい・・・・・・かな、と思ってんだよ」
「え? まさかお前に、そんな人がいるとは思わなかった。・・・・・・親父。こりゃ意外な話が源五郎から飛び出したもんだなぁ! いったい、どんな方なんだろうかね?」
「昼間から飲み歩いてるような貴様に、そんな話がありやがるとは信じがたい! 早乙女家の男として、もしその人が葦原の遊女かそこらの飲み屋の女なんかだったら、ただじゃおかんぞ!」
「そんなわけねぇだろ! 千草さんは、銀座街水引屋の茶寮で店長やってんだ! 若いけどしっかりした、素敵な人だ! 見てもいねぇのに、あーだこーだ言うんじゃねぇ、親父!」
ゲンは甚兵衛に怒鳴ると、足下のブリキ缶を思いっきり蹴った。
「茶寮の若い店長だと? そんなどこの馬の骨かもわからん女を、早乙女家の嫁として迎えられるわけないっ! ならんっ、源五郎! きちんとした家の娘との縁以外、だめだ!」
「どこの馬の骨かなんてひでぇ言い方すんな、親父! 千草さんは、同郷だ! 上陽向村の出で、俺と同じく地方から東京に出て暮らしてる人だ! それのどこに文句があるっつーんだや!」
「なに? 上陽向だって? ・・・・・・源五郎。その、千草さんって方の、姓は?」
「あ? 神宮司だよ。神宮司千草。・・・・・・上陽向の庄屋が実家だとか言ってたな・・・・・・」
すると優一郎と甚兵衛は同時に「神宮司だと!」と、目を大きく見開いた。
「親父! か、上陽向村の神宮司家って言えば、由緒ある大庄屋のっ! すごいんじゃないのか」
「ど、どういうことだ! 源五郎が、神宮司家の娘と! ど、どんな娘なんだっ! 教えろ!」
ゲンは二人の反応を見て数秒後、ゆっくりと立ち上がった。
「な? 東京はおもしれーべ? 合縁奇縁っつーやつだんべな。これもまた、運命・・・・・・かな?」
さっきまでの表情とはうってかわって、ゲンは優一郎と甚兵衛へ、朗らかな笑顔を見せていた。