其の一 男二人、銀座街にて酒を飲み
昭和二十四年八月、東京。
銀座街の一角にある小さな屋台に、とぉんと言う音が、響いた。
「・・・・・・しっかし、どぉすんだぁ? 辞めちまった後のこと、考えてなかったんだっぺぇ?」
茨城訛りのある丸メガネの男は、置いたぐい飲みから指を離さないまま、笑ってそう言った。
「さぁねぇ。確かに、これからどぉすっかなぁー」
丸メガネの男の横で、ボサボサ髪をした浴衣姿の男は、ケラケラと笑ってそう返した。
「やっぱりだっぺ。案の定、ただ短気起こしただけだったんかよぉ。かぁーっ!」
「そんなことねーよ。俺ぁなぁ、とにかくあの主任に、末端の作業員がどんだけ辛ぇ思いで作業してっかをわかって欲しい一心で・・・・・・」
「だからってよ、ぶっ飛ばすことなかったっぺや? あの時、すげぇ騒ぎになってたぞ!」
「ぶっ飛ばしたんじゃねぇべよ。怒鳴られて掴みかかられたから、やさぁしく、やめて下さいねーって、突き放しただけだべなー」
ボサボサ髪の男は、丸メガネの男とはやや違う訛り口調。栃木訛りだ。
またケラケラ笑いながらぐい飲みを持つと、その酒を一気にくいっと喉の奥へ流し込んだ。
「ゲンの優しくは、優しくなかっぺ。どーせ、主任がおらたちと同じ太平洋大学出身で、しかも、犬猿の仲だった柔道部の主将張ってたヤツだからだっぺ?」
丸メガネの男は呆れ笑いを見せながら、ゲンという男のぐい飲みへ、また酒を注ぐ。
「はっはっは! わかってんじゃないかよ、島村!」
「気に入らねぇのはわかっけどよ。だからって、ぶっ飛ばして仕事クビになっちゃ元も子もなかっぺよ! ・・・・・・ゲン。あの件からしばらく経つけど、おらが上司に頼んで何とか戻してやっけ?」
島村という丸メガネの男は、ゲンの横へ焼き鳥の皿を寄せて、そう言った。
「・・・・・・いいよ。俺はあの東洋江建築っつぅ会社とは、どーもソリが合わねぇ! このまま、ふらふらとまた別な仕事でも探して、しばらく適当にやっから、だいじ(大丈夫)だ!」
「しばらく適当に・・・・・・って、金はあんのかや、ゲン?」
「金? ああ。まっ、何だかんだで終戦後の東京で働いてたんだ。多少は持ってる。だいじだ」
「どんぐれぇ持ってんだ? 本当に大丈夫だっぺか?」
「だいじだっつってんだろ? 心配性だな、島村は! 学生の頃から変わっちゃいねぇ」
ゲンは浴衣の袖から、財布を取り出した。その中からいくつかの一円黄銅貨と、くしゃくしゃになった十円紙幣が三枚出てきた。
「見ろや、島村! ちゃぁーんと金、持ってんべよ? これで、だいじだべ?」
「ゲン。その、財布の中身じゃなくよ、適当にやっていけるだけの全財産は・・・・・・」
「だから、これで全部だよ。しめて合計三十四円・・・・・・ってとこだなや! はっはっは!」
島村は、笑っているゲンを見て呆然とした。数秒後、「酒なんか飲んでる場合じゃなかっぺ」という呆れた声が、屋台の外にまで響いたのだった。
* * * * *
「Hey、ジャップ! ジャァップ!」
屋台の後ろから飛んできた、明らかに日本語ではない呼び方。
頬を赤らめたゲンは「ん?」と、その声の方へ身体を向けた。そこには、百八十センチを超えた軍服姿のアメリカ人が数名、ニタニタと笑って立っている。
「(ま、まずいぞゲン! 進駐軍の奴らだ! 因縁つけて、おらたちをいたぶるに違いねぇ!)」
島村は、ゲンの袖を小さく引っ張り「うまいこと言って逃げよう」と囁いている。
しかし、島村の思惑とは裏腹に、ゲンはゆっくりと席を立ち、その男の方へふらりふらりと歩み寄っていった。
「な、何してんだよゲン! 逃げっぺ! 逃げっぺよぉ! 相手にしちゃダメだ!」
「取り乱すな島村。おめぇ、太平洋大学空手道部の副将だったのに、そんな弱腰でどーすんだ?」
「い、いやいや! 進駐軍に敵うわけねかっぺや! 奴らはアメリカ式の軍隊格闘術を・・・・・・」
島村が言い終える前に、男たちはゲンを取り囲むようにして見下ろし、その白く大きな手でゲンの浴衣の胸ぐらを掴んで捻り上げた。
「ああっ! ま、まずかっぺ! ゲン! 進駐軍とは揉め事を・・・・・・」
「やかましいぜ、島村! おめぇ、いつからそんな弱腰野郎になったんだ! 俺が主将だった時のお前は、もーちっと骨のある男だと思ったけどな? ま、そこで座って酒飲んでろやぁー」
ゲンは大きな男たちに胸ぐらを掴まれていようが、全く気にしていない。ほろ酔い笑顔のまま、男たちに「どーなっても知らんぞい?」と言い、挑発するように、にかっと白い歯を見せた。
「ガッデェーム! ジャップ!」
進駐軍の男はゲンの笑いが癇に障ったのか、胸ぐらの手を離して腕を振り上げ、そのまま拳を握ってゲンの顔面へ打ち下ろした。
それと同時に、ゲンはにやりと笑う。そして次の瞬間、ゲンの浴衣袖はぶわりと舞い、男の拳と腕を打ち弾いていた。その直後、ゲンは草履足で男の金的を蹴り上げた。男子必倒の一撃を叩き込まれた男は、その場にどしゃりと倒れて動かなくなった。
他の男たちは「キルザジャップ!」と叫び、同じように殴りかかる。しかしゲンはこれらを片手で受け流し、もう片方の拳で一呼吸の間に三発の突きを放って、男たち全員を一瞬で昏倒させた。
「酒くらい、ゆっくり飲ませろってんだ。・・・・・・お! いいもん見っけ! もらっちまうべー」
ゲンは昏倒した男たちのポケットから、それぞれの財布をささっと取り上げた。
「見ろよ島村! やっぱり、進駐軍のやつらは金持ってんなぁ! これでしばらくは俺も・・・・・・」
「ば、馬鹿野郎! やらかしやがって! とにかく、早くここから逃げなきゃまずかっぺーっ!」
「ちょ、ちょっと! 島村! まだ、俺の酒があそこに・・・・・・。焼き鳥や板わさも・・・・・・」
飲み代を置いて、ゲンの襟首を掴んで島村は一目散に逃げた。引っ張られてゆくゲンは最後まで、「もったいねぇ」と残念そうに、屋台の方へ両手を伸ばして名残惜しんでいた。