ミーナ伝記 その9 美少女
9 美少女
孤児院で生活して2年、ミーナは8歳児とは思えない背の高さと強気に見える眼差しを手に入れていた。そして、その身に収めたメイドの技能は、伯爵家で仕えるのに十分なレベルに達していた。学校を卒業する他の12歳と同じ仕事ができるだけでなく、教養も礼儀も含めて、全ての分野で卒業生以上の評価を受けていた。
「素晴らしい成績だな。次の学年からは何の授業を受けるのだ。」
「学校を卒業して、レヤード伯爵邸で働かせていただきたいと思います。」
孤児院の応接室で、ミーナに入れてもらった茶を飲みながら、家令ゼムスは驚く他はなかった、なぜ、彼女がそのような判断をしたのかが分からなかった。第2学校でメイドとして学ぶ事が無くなったとは言え、居心地が悪いはずはなく、特に学校の図書館で様々な書物を読む事ができる事を喜んでいた。だから、12歳の卒業までは孤児院で暮らすのだろうと家令は考えていたし、伯爵もその意図を持っていると聞いていた。
「働く事は、こちらとしては問題ないが。孤児院を出ると、学校の書物を見る事は難しくなるのではないか。伯爵邸にも私達が読んでも良い本はあるが、蔵書は図書室がある学校とは比べられない程少ない。」
「書物については、時々借りる事ができるように頼んでおきました。」
「そうか。それなら、お屋敷で働いてもらう事には賛成だが。以前ミーナは、12歳になるまで学校に通うと言っていたと思っていたのだが。」
「そのつもりでした。」
「では、どうして、考えが変わったのだ。」
「・・・・・・。」
「いや、必ずしも話をしなくてもいい。個人的な心情については報告義務がある訳ではないからな。」
「いえ、ゼムス様に聞いておきたいと思う事もあって、どのように話せば良いのかと考えていました。」
「そんなに大切な事なのか。」
「はい。2カ月前から、ゼムス様の表情に、疲れと言うか、悩みがあるように見える事がありました。それに、伯爵様や伯爵夫人、エリス様の話が急に減って、お屋敷で働く他の方たちの話が増えました。何らかの問題があって、解決が難しい事がお屋敷で起こっているのだと考えました。問題が何であるのかも分かっていませんし、私が何かできる保証は何1つありませんが。子供なりの視線で見る事で解決策を見つける事ができるかもしれないと考えました。」
8歳の子供にしては賢いではなく、純粋に1人の人間として賢い事を認識していたが、賢いという言葉だけでは評価できない観察力と思考力をミーナが持っている事を認めた上で、この少女の力を借りる事が一番良い結果をもたらすだろうとゼムスは考えていた。
「ミーナ、レヤード家が武門の家で、暗闇の暴走では、大の巣や中の巣に乗り込んで行った戦士を何人も輩出している名家中の名家である事の話しをした事があると思う。」
「はい。歴史でも習いました。王都内では、公爵家の盾と呼ばれている事も知っています。」
「その通りだ。そして今、レヤード家には、次の世代の戦士たるべき子供がエリスお嬢様1人しかおられない。」
「3歳の時から、武術の訓練を行っているともお聞きしました。」
「ここからは外部には漏らしてはならぬ事だが。」
「お待ちください。伯爵様に正式な雇用をしてからではいと、私が聞いてはならない事ではないのですか。」
「私には使用人の雇用に関する裁量があり、ミーナの申し出を受けると決めた。問題はない。それよりも、来てくれるのであれば、知っておかなければならない事がある。」
「分かりました。伯爵家でお世話になる事、改めて、お願いします。」
「うん。それで、秘密の話とは、エリスお嬢様は、次期公爵であるギルバード様と婚約されている。ご本人方には2年か3年後に話をする事になっている。伯爵が伝えるまでは、お嬢様にも言ってはならない。」
「分かりました。問題と言うのは何でしょうか。」
「エリスお嬢様は、次期公爵夫人であり、次の暗闇の暴走の時に、魔獣と戦わなければならない。」
「はい、重き使命を背負っておられる事は理解しています。」
「・・・・・・。ミーナは魔獣を見た事はあるか?」
8歳の少女に聞くまでもない質問ではあるが、彼はあえてそれを聞いてみた。知っているか知っていないかでは、公爵家が英雄であると言われる事の意味が全く違っていた。知らない庶民には、公爵家の人間とは魔獣を討伐した、単なる英雄だった。しかし、それを知った人間は、公爵家の人間とは、魔獣を倒すために多くの騎士を盾として命を捧げさせる存在であり、一緒に巣に入る騎士達にとっては死神にも等しかった。そして、その死神になる資格を得るには、生と死の狭間で生き続けなければならなかった。たまたま英雄の血筋に生まれて英雄になるのではなかった。
「いえ、見たことはありません。」
「私は何度か見た事がある。1人で倒す事などできなかったが、集団で戦った経験もある。だから、知らない者には大げさに思われるかもしれないが、魔獣と戦える実力を身に付けるには、それこそ命を賭けた訓練を続けなければならない。」
「エリスお嬢様が、厳しい訓練を始めたという事なのですか。」
「そうだ。」
ミーナは、自分自身が人よりも優れている点がある事は理解していたが、知らない事を知らないと認めて、知ろうと努力をした時、書物や教え導いてくれる人が居続けただけだと自分を評価していた。自身が何かを発明したり、何かを見出した訳ではなかった。
英雄になるための訓練がどのようなものなのかは知らないし、英雄になる使命を背負った人間達の気持ちも全く分からなかった。ただ、それは触れた事がないからであって、これから先、それらを知る機会を持ち、知っていく中で、レヤード伯爵家に仕えなければならない事だけは分かった。
そして、幼い少女であるエリスお嬢様に対して、どう接すれば良いのかが、家令であるゼムスにも、おそらく両親である伯爵夫妻にも分からなくなっているのだろうとミーナは推論した。
公爵家が対峙する魔獣の巣というのは、人間の考える常識の遥か外にある存在であろうという事だけは、今のミーナにも理解できた。
「ゼムス様、伯爵様に、エリスお嬢様の侍女になりたいと伝えてもらえないでしょうか。メイドとしての仕事もきちんとやります。」
「要望は伝えておく。」
ミーナはこの日、生涯で最も長い時間を過ごす事になる肩書であるエリスの侍女と出会った。
学校を早期卒業した天才メイドは、主となる伯爵夫婦と対面した。屋敷の応接室に通された少女は、深々と一礼した。
「ミーナと申します。お屋敷で働かせていただく事になりました。誠心誠意伯爵家に尽くします。」
「よろしくお願いします。話をしますから。そこにお掛けなさい。」
「はい。失礼いたします。」
武骨な戦士である伯爵は青のズボンと白のシャツという庶民と変わらない服装だった。騎士の鎧装備の内着と考えれば違和感はなかったが、夫人の方の水色のワンピース姿にはミーナも驚いた。家庭内の普段着とは言っても、伯爵夫人である以上、それなりのドレスを纏っているのが一般的であり、庶民と変わらない服装でいる事は、メイドとして学んだ常識からはありえなかった。
領地や使用人にお金を回して、自身のためにお金を使わないという話は家令から聞いてはいたが、過度な贅沢はしない事を意味していると思っていたが全く違っていた。本当に自分自身たちにお金を使う事を避けているのが分かった。
輝かしい金髪は珍しいものではなかったが灰青色の瞳は珍しかった。その珍しさは魅力の1つにはなるが、伯爵夫人の魅力は、整い過ぎた容姿から醸し出される柔らかさだった。守らなければならないと決意を固めさせるような印象を与える造詣を持った、美しい彫刻が動き出して生きているようだとミーナは感じた。
厳つい戦士とお淑やかな姫君が並んで座っているから、その落差が強調されるのかもしれないが、夫人は夫人らしく見えなかった。ミーナからすれば美しいお姉さんのようにしか思えなかった。そして、少し着飾り、髪を結いあげるだけで、どこの姫様にも負けない姫様にする事ができると、ミーナのメイド力は感じていた。
「ゼムスから、エリスの侍女になりたいと聞きましたが、我が家では、着替えや入浴など、自分でする事になっています。メイドとして雇う事には賛成ですが。エリスのお世話役となる侍女は必要ありません。」
見た目とは完全に異なる強い意思だけを込めた言葉にミーナは押し流される事はなかった。赤髪赤目のつり目気味の少女は、見た目と同じように強い意思を持っていて、それを出す事を躊躇しない胆力を持っていた。
「発言してもよろしいでしょうか?」
「我が家では、使用人には常時発言する事を許している。そのような許可を取る必要はない。」
「畏まりました。では、伯爵夫人のお言葉にお答えします。エリスお嬢様はいずれ高位の夫人になると聞いています。人を使う事に慣れる必要があると考えます。未だ、エリスお嬢様に侍女がいないのであれば、年も近い私がその役に相応しいと考えます。」
「オズボーン公爵家に嫁ぐ事は聞いたのね。」
「はい。」
「ミーナが優秀な成績である事は聞きました。あなたの言っている事は、普通の貴族の家であれば間違っていません。ですが、公爵家も我が家も、武門の家、特に中の巣と大の巣で戦うための家です。1人でも生きていくだけの能力が必要です。誰かに手伝ってもらわなければ、着替える事ができない。装備を付ける事ができない。では、困るのです。」
イシュア国最高の貴族であるオズボーン公爵家で、そのような生活をしていると言う初情報には驚いたが、その驚きを表情に出す事は無かった。ミーナにとっての課題は、伯爵家でどれだけエリスお嬢様に近い立場を得る事だった。
「それらができない事は問題かとは思います。ですが、できるようになった上で、人に任せる事は、ご自身の時間を確保する上で必要な事かと思います。公約家に嫁ぐにあたって、様々な学習が必要となるエリスお嬢様には、時間はとても貴重なものであると考えます。そのお手伝いをしたいと考えています。」
「皆が言うように、頭の回転は速いのね。物怖じしない所も気に入りました。侍女とする事には反対しません。ですが、今までエリスが1人でやっていた事は1人でやらせる事を邪魔しない事と、これからエリスが受ける授業のいくつかを一緒に受ける事が条件です。」
「伯爵夫人のおっしゃる通りにいたします。ただ、私が授業を受ける事の理由を教えていただきたく思います。」
「エリスの側仕えになるのであれば、あなたの評価も、エリスの評価の一部になります。」
「おっしゃる通りです。エリスお嬢様のご迷惑にならないように、授業も尽力いたします。」
応接室にノックの音が響き渡った。
「エリスお嬢様をお連れいたしました。」
ソファーから立ち上がったミーナは、扉の方に体を向けた。紺色のシンプルなメイド服の赤髪赤目の少女は、家令の後に入ってきた6歳の少女に目を奪われた。新たに仕える主に視線を向けるのは当然だが、視線を向けた瞬間にミーナは心を奪われた。
応接セットに向かって歩いてくる金髪と灰青色の少女は、母である伯爵夫人の髪と瞳の色を受け継ぎ、その美しさも受け継いでいると言われていた。しかし、武骨な父の要素を何1つ継承していないから、母からその美を継承したと言われているだけであって、エリスお嬢様は夫人から美を継承しているとは、ミーナには思えなかった。
ミーナには少女の美しさは、母の何倍も上だと思えた。6歳児と言う可愛さだけが爆発している年齢であるのに、エリスと言う少女の可愛さには美しさが備わっていて、美しいという評価が可愛さを超えていた。
「ミーナ。」
自分の前まで来た姫に挨拶しなければならない事を忘れていたミーナは、家令の声に自分のいる場所がどこであるのかを思い出した。
自分よりも頭1つ分小さな伯爵令嬢の前に跪いて挨拶しようとした動き出した瞬間、ミーナは灰青色の瞳の中にある何かを感じた。それが何であるのかは理解できなかったが、膝を床に着いてはならないと感じた。
「ミーナと申します。エリスお嬢様の侍女として、お屋敷で働く事になりました。よろしくお願いします。」
腰を曲げて、上半身を少女の方に少し倒して、視線の高さを合わせてから、ミーナはエリスに初めて声を聞かせた。
「よろしくお願いします。」
可愛らしいとしか表現しようがない声を聞いたミーナは、生まれてから一番と言える嬉しそうな笑顔を向ける事ができた。自分の顔を鏡で見た訳でなかったが、この後、家令のゼムスから、その事を教えてもらった。