4話:グロリア・ナセールとドッペルゲンガー
◆
商人たちが商品を売っているエリアを抜けて、住宅街の奥まった道を全力で走る。
もし初めて来たのなら、絶対に迷う。そう断言できるほどに、ここの住宅街の道は狭く、入り組んでいる。
けれど、私が迷うことはない。
生まれた時から、命を落とすその日まで、何年も通った自分の家への道。
よく見知った家が次第に増えてくる。
この道の先。突き当たりに見える、あの角を曲がれば──
「…ハァ……ハァ……あった」
──私の家。
木造の至って普通の一軒家。庭先にはたくさんの花が植えられている。
そして思い出すのは、少年の手にあった、ゼフィランサスの花。
その白く可愛らしい花は、この地域に自生する花ではなく、
母が、流れの商人から買った球根から、私と2人で育てた、このあたりでは私の家にしか咲いていない花。
あの花を、少年に渡した栗色の髪の女の人、それが誰かなんて、簡単に想像がついた。
そんな風にあれこれ考えていたその時、家の扉が開いて中から誰かが出てくる。
栗色の長髪に空色の目、手にはジョウロを持っていて、これから庭先の花たちに水をやるのだろう。
それは、グロリア・ナセールの、私の、日課だった。
視線の先にいるのは、間違いなく、私。
それなら私は、一体何のために、グロリア・ナセールとして逆行したのか。あそこにいるのが、本物のグロリアなら、暮らす環境も親も違う、私は一体何者になるというのだろうか。
問うほどに、自分の存在理由が分からなくなって、私という人間を支える足場がグラグラとバランスを失っていく。
どのくらいの間、そこでグロリアを見ていたのか。気付いたらグロリアは家の中に入って行ったようだった。
心の奥がざわざわする。私が私で無くなるような感覚に襲われる。
そうして、どうにも、何も考えることができないまま、もと来た道を通り、約束している、ヴィクトールの邸へ向かった。
◆
「やあ、グロリア。待ってたよ」
「グロリア様、ようこそお越しくださいました。ちょうど先程りんごのパイが焼きあがりましたの」
「ええ、邸中にパイの芳ばしい香りが広がっていますわね」
「さあ、グロリア。はやく部屋に入って、出来立てを食べよう」
「グロリア様。部屋の中へ、すぐにパイと紅茶をご用意いたしますわ」
「そうですわね、楽しみですわ」
気持ちの整理がつかないまま、ヴィクトールの邸に到着した私を、イザベルさんとヴィクトールが出迎える。
イザベルさんのりんごのパイを、あれほど楽しみにしていたのに、今は、もう1人の自分のことが頭を占めていて、2人とする会話も上滑りしているように感じる。
前を行くヴィクトールの後について、昨日と同じ部屋に入って行った。
「昨日と同じ席で、いいかい?」
「ええ」
「ねぇグロリア。そこは、昨日の席じゃないよ」
「あっ、ちょっとぼーっとしてて、こっちでしたわね」
「ああ……」
コンコン
「ヴィクトール様、グロリア様、紅茶とパイをお持ちしましたわ」
「ありがとう、イザベル。さあ、食べよう」
ヴィクトールと対面する形で席につき、イザベルさんが淹れてくれた紅茶と、焼きたてのりんごのパイを食べ進める。
「とっても、美味しいですわ」
りんごの優しい甘みと、温かく、香り高い紅茶のおかげか、少し頭の中でぐるぐるしていた感情が落ち着きを取り戻してくる。
「お土産に持ち帰る用に、いくつか包んでありますので、お帰りになる際にお渡ししますわね」
「ありがとうございます。イザベルさん」
「さて、グロリア。」
「なんです?」
「何かあったんだろう? 落ち着いたなら話してみないかい?」
優しげに、こちらを気遣うような表情でヴィクトールがそう言った。
ヴィクトールの横で、イザベルさんも同じような顔をしてこちらを見遣っている。
どうやら、落ち着かない様子の私に、何かあったと気付いていたらしかった。
「本当に、些細なことなんですわ。けれど、なぜか落ち着かなくて……」
話の続きを促すように、ヴィクトールは無言で頷く
「今日、レストラン街の奥の住宅街に行く用事があって、そこで、自分とそっくりな、本当に見間違うほどにそっくりな女性を、見かけて……他人の空似だとはとても思えなくて……」
自分と名前も全てが同じだという事までは言わずに、不安になったという旨だけを伝える。
「なるほど。グロリアには姉妹はいるのかい?」
「いえ、一人っ子ですわ」
「そうか、他人の空似でもない気がして、姉妹でもない。だとすると……ドッペルゲンガーってやつなのかな」
「ドッペルゲンガー……?」
「私も詳しくは知らないのだけれど、もう1人の自分の存在を言う。私の国にはそのような都市伝説があるんだ」
「グロリア様、ドッペルゲンガーについては私も聞き覚えがありますわ」
「イザベルさんも?」
「ええ、私たちの国では少しだけ有名な都市伝説ですの」
「その類の話は、私よりイザベルの方が詳しいだろうな。イザベル、グロリアに話してくれないか」
「分かりましたわ」
「イザベルさん、お願いします」
「ドッペルゲンガー。これは、自分と同じもう1人の自分が存在するという話で、片方は本物から切り離された思念が意思を持って動くようになったものだと言われているわ──」
イザベルさんの話を聞くと、ドッペルゲンガーとは、何らかのはずみで、本物の体から切り離された思念が、強い執着で、意思を持ち動き出した存在で、お互いが自分を本物だと思っているらしい。
あくまで、都市伝説ですわ、と前置きした上でイザベルさんが話した、ドッペルゲンガーの最期の話は、私に衝撃を与えた。
本物と対面する形で出会うと、思念は取り込まれ、消えて無くなってしまう。
この都市伝説の語り手が、自分を本物だと思っているドッペルゲンガーの視点で、言い伝えられることが多いせいで、ドッペルゲンガーに会うと消えてしまう、言い換えると死んでしまう。そういう、怖い都市伝説として言い伝えられているらしい。
「─と、いう話なのですわ。もちろん、あくまでも都市伝説ですから、無闇に怖がるようなことでもないのですわ」
「出会ったら、消える。それはとても怖いお話ですわね……」
「グロリア、君は君だよ。何も怯えることはない」
「そう、ですわね……」
ただの都市伝説だと、そう思うことが出来ないのは、思い当たる節が多いせいなんだろうか。
何も分からないままに、処刑されたことに対する、怒りや悲しみ、そんな強い思念が、意思を持った姿が、今の私だと仮定するなら、この変な状況にも説明がついてしまうんじゃないかと思う。
そう考えると、私は、出会ってしまったら消える方。
つまり、ドッペルゲンガーの方なんだと、嫌でも分かってしまう。
消えたくない。
せっかく、もう一度生きられるというのに。
もう、意味も分からず死ぬのは嫌……。
そんな風に、マイナスな思考に沈んだ私の意識を、浮上させたのは、ヴィクトールの思いがけない提案だった。
「……それでも、もう1人いるかもしれない自分に出会うのが、恐ろしいというのなら、私と一緒にラーヴァンド王国へ行こう」
「えっ?」
「まぁまぁまぁ!! それは素敵な提案ですわ! グロリア様、ラーヴァンド王国は、冬場はここよりすこし寒いけれど、自然も豊かでとっても綺麗な王国ですの! きっと後悔はしませんわ!」
突然のヴィクトールからの提案に、驚く私を他所に、イザベルさんが楽しそうに反応する。
「私たちは、この国に用があって来ているだけだから、用が済めばラーヴァンド王国へ帰るんだ。まぁ、色々あってこの国にはよく来るから、こうして別邸を建てているわけだけれど」
「ラーヴァンド王国……。ヴィクトールの住む国に、一緒に……」
以前の私は、この国を出たことが無かったのだから、この国を出れば、もう1人のグロリアに会う確率はグッと下がるはずだ。
「グロリア?」
「連れていって、くれますの? 本当に?」
「ああ! もちろんだ!」
「ふふ、ヴィクトール様、とても嬉しそうですわね」
ヴィクトールへ、ニコニコとした顔を向けて、イザベルがそう言った。
「イザベル!」
「ヴィクトール様は、とても分かりやすいお方ですので」
顔を赤くしたヴィクトールに対して、イザベルがそう言って微笑む。
「そうなんですの?」
「グロリア! 何でもないから、気にしないでくれ」
「あらあら」
コンコン
そんな風に3人で話をしているところに、ノックの音が響く。
「失礼いたします。ヴィクトール様、お手紙が届きました」
部屋に入って来た、マティスさんが、その手に持つ手紙をヴィクトールに手渡す。
「ご苦労、マティス」
手紙の封を切って、手紙を読んだヴィクトールが、顔を上げてマティスと目を合わせる。
「グロリア、急な用事が入ってしまったんだ。すまないが、今日はお開きにしてもいいかい」
「ええ、それはもちろん」
「用が済んだら、必ず迎えに行く。一緒にラーヴァンド王国へ行こう」
「ヴィクトール様……それはつまり……」
「そうだ、グロリアを国へ連れて行く。その意味は察するところだろう?」
ヴィクトールの言葉を聞いて、何かを察したマティスが、確認するように言うと、頷いたヴィクトールがそう返した。
何のことなのか、私にはさっぱり分からなかったが、ヴィクトールが迎えに来てくれるという、ただそれだけが、とても嬉しかった。
「待ってますわ。必ず、迎えに来てくださいね」
「約束しよう」
こうして、ヴィクトールとの約束を胸に、ヴィクトールの邸を出て、帰路についた。
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