96.瞬息(1)
「天道さんって世界の人類の中で一番忙しいんじゃないの?」
静香が朝、控室にご挨拶に行ったところ、御厨先生は相変わらずフレンドリーに対応してくれる。
「この前は棋奥戦の第一局を先手番で落としたし、今日も最速の女王様が相手だし、もうちょっと楽な相手ともやりたいなあ」
最速の女王? 静香自身が今までに耳にしたことのないあだ名だ。かなり早指しの傾向があることと、女王のタイトルを持っていることからの安易なあだ名だと思ったけれど、御厨先生がつけたはずもないので、文句を言うのは止めた。それから静香は少し考えて、できるだけ差支えのない話し方で御厨先生に答える。
「普通に私の所属する芸能事務所の方々は毎日私よりも忙しく働いてらっしゃいますよ? そして公式戦なら、私の代わりに白銀戦のD級に出てみませんか? 御厨先生なら、中学生の子にもご年配の方にもとてもチヤホヤされると思います」
白銀戦のD級には静香より若い子も何人かいるし、年配の方もいらっしゃる。そしてみんな静香のことに興味津々なのが伝わって来る。そして、こんなことを言うと身も蓋もないが、あまり苦労せずに勝つことができる。いやD級を見下すわけじゃないけれど、こう見えても静香は女流のタイトルを二つ預かる身であるし、今日みたいに御厨先生と対局するよりも楽な相手だ、と言ってもさすがに誰からも文句は出ないと思う。
「私はまだA級の先生に勝ったことがないですからね。初めてが御厨先生だったら嬉しいのですけれど」
御厨先生は笑って、なにかを言おうとして止めたのが静香にはわかった。だが、何を言おうとしたのかはわからない。
「もちろん、今日は午前も午後も勝つつもりで来てるけどね。天道さんもそうでしょ?」
もちろんそれはその通りだ。だが特に作戦を用意できているかというとそういうわけでもない。御厨先生に無策で挑む私ってどうなの? とんでもなく失礼なことしてない? だがそんな内心を隠して静香は返事をする。
「はい、御厨先生と公式戦で対局できるのはとても楽しみです。できるだけ食らいつきますね」
そう言って静香は自分の控室へと戻った。他の二人の先生とは面識がないので対局前に押しかけるのは止めておいた。
今日の戦型……今から戦型考えても仕方がない。こんな短時間ですごい戦法を思いつけるような天才ではない。静香にとって有利なのはこの夕陽杯が持ち時間が40分しかない短期戦ということだけだ。だから静香はまだプロになって1年足らずの身でベスト4まで来れた。
もちろん組み合わせに恵まれたというのもあるが、それでも本戦に入ってからの相手は皆、持ち時間が3時間であれば確実に負けていただろう棋士たちばかりだ。
だから今日も早いうちに定跡から離れて、力勝負に持ち込むしかない。そしてそうしたからと言って、御厨先生に勝てるかというとそんなことは無い。
私がブックメーカーなら 1:9 ぐらいでつけるかな? 静香は自虐的に考える。あともう一つ考えておくべきことがある。前のめりになるぐらい攻撃重視でいくか、それとも少しでも粘るべきか。静香が得意なのは前者だけれど、御厨先生に勝つためには後者を選ぶべきな気がする。なぜなら……
いやそれは考えても無駄だ。ただ思いついた一手を、短い時間で絞り出した一手を、最善手と信じて指し続けるだけだ。
それから控室で少し受験のことを考えた後、静香は自分の身なりを確認する。もうこの制服を着て対局に臨む機会はあまりない。卒業した後は何を着ようかな。女流の先生方を見るに、スーツかワンピースが無難だろう。今日は伊達メガネをかけ、髪も自分でできる程度に整えた上で三つ編みにする。
当たって砕けろって奴ね。
時間が近づいてきたので、静香は自分の控室を出て舞台袖へと向かう。準決勝は同時に始まるが、メイン会場に選ばれたのは、静香と御厨先生の対局だ。開始前にベスト4に残った棋士は全員このメイン会場でお客様に向かって挨拶をするが、静香と御厨先生以外のふたりは別室で準決勝の対局をすることになる。
こうして舞台袖からちらっと客席を覗くと、この会場に来てくれたお客さんにも、そして中継を見て応援してくれているお客さんにも無様な姿は見せたくない。静香が来るとしばらくして他のお3方も来たが軽く頭を下げあう程度でお互い無言だ。全員集中に入っている。
あっ、もう一つ有利な点を見つけた。それは先ほどちらっと見た観客だ。これほど多くの人の目に、これまで一番晒されてきたのは……おそらくだけど、キャリアが一番短い静香だろう。多分御厨先生を含めてもそうだと思う。
そして観客の多くが、この4人の中で最も若く、将棋以外にもいろいろやっていて、また唯一の女性である静香を後押ししてくれる。ジャイアントキリングを、プロ1年目でのドラマチックな優勝を期待してくれる人たちが静香に力をくれるはずだ。そんな空気を静香は感じた。司会者が出場者たちに声を掛けるのを聞いて、静香は4人の一番最後に舞台へと出た。
思った通り、一番大きな拍手と歓声、そして主催者である新聞社のフラッシュが大舞台に挑む静香を迎えた。