93.勝数規定
お待たせしました。8月になったので、連載再開します。でも7月で終わらせる予定だったもののいくつかは、まだ残っちゃったのです……。次は10月か11月にお休みを頂くことになるかと思います。さすがにそれまでには完結してると思うのですが。
「ほんとに、若い人はせっかちだねえ」
盤を挟んだ初老の男はのんびりと話しながら指す。
「確かに私はまだ5時間以上残してますが、もう少ししたら控室で休ませて頂こうと思ってます」
順位戦C2第9局、静香の相手は規定の定年を過ぎ、師匠より年上の65歳になっても現役を続けてらっしゃる八段の先生だ。通算700勝されていて、五段以降の昇段はすべて勝数規定によるものだ。B2に一期だけ入ったことがあるという方で、キャリアのほとんどをC1で過ごされている。そのせいでC1の番人というあだ名があったりする。
タイトル挑戦はもちろん棋戦での優勝経験もない。こういう言い方は失礼だけど、細くそしてとても長く将棋を指し続けて来られた方だ。今季の順位戦では、まだ3勝しかされていないので、降級点が付く可能性もある。もしそうなってもこの先生がC2に降級してからまだ4年目。仮に今季降級点が付いてもこれが初めてなので少なくともあと2年は現役を続けられるはずだ。
「寝る子は育つって言うしねえ」
あと100勝程すると勝数規定だけで九段に達する先生はそう言ってゆったりと指す。でもさすがにあと100勝は厳しいのではないだろうか?
一方の静香は10秒ほど考えて指す。
「私は育ちすぎちゃいましたけどね」
静香の身長は高2で止まったが、それでも172cmあるから、女性としては大柄になる。大先輩は黙り込んで考え始めたので、静香は控室でひと眠りすることにした。
昔はこうやって話しながら指す人も珍しく無かったと聞くけれど、最近では無言で打つのが普通になっている。だがこの大先輩には誰もなにも言えない。
静香は対局室を出て、今日は控室になっている桂の間に向かう。
ああ、アメリカから帰って来てまだたった3日しか経ってないのか……随分と前の事だったような気がする。
空港へ向かう車の中で、社長、香織さん、大蔵先生など、お世話になった皆さまには電話で御礼をしておいた。
その後、帰りのビジネスジェットではスタッフが総出で祝ってくれた。特に明石さんと菱井物産の高跳さんがはしゃいでいた。その様子も撮影されたが、撮影が終わった後、千夜以外の他のスタッフは少しだけお酒が配られて飲み始めた。明石さんはほろ酔いでもかなり雰囲気が緩くなっており、いつもよりもかなりフレンドリーな感じに仕上がっていた。
「もうホント千夜ちゃんスゴくて。もう何度も泣いちゃったんですよね」
明石さんに下の名前で呼ばれたのは初めてのような気がする。大人が飲酒をやめない原因はこれか。
千夜はとても眠かったがこれも仕事だ。2時間近く素面でみんなとはしゃいで、それからパイロットに差し入れをしてから眠りについた。起こされた時には羽田に到着していた。9時間以上寝ていたってことだ。
帰国したその日は取材に追われた。半ば恒例となった千代のスポンサー合同による新聞の見開き広告もド派手に載っていた。片面はLAでのライブ中の、反対側は5つのトロフィーを持った千夜がでかでかと写っている。
合同記者会見の後、各マスコミをハシゴする。
「もうあの場にいること自体が夢みたいでしたね。ましてや舞台に上がれるなんて思いもしませんでした」
2日目は女流王偉決勝リーグ白組第3局だった。スケジュールが厳しいのは連盟が千夜のプライベートに配慮して予定を調整してくれたおかげなので、感謝こそすれ文句を言う筋合いはない。
そして3日目の今日が順位戦。この間、受験勉強はほぼできていない。もちろん学校にも行っていない。3年生はこの時期あんまり学校に行かないけど……一番勉強しているのが、棋戦の待ち時間中の脳内復習というのはかなり問題。あとは時間の合間を見つけて各教科の復習をしている。
ちなみに明日は間合塾他の撮影があって、明後日は鋭王戦本戦の1回戦。3日後は棋神戦決勝1回戦がある。相手は早蕨九段。海老沢先生に奪われるまで鋭王を持っていた棋士会長だ。その次の日はさすがにオフ。なぜなら当日は恵愛堂医科大学の入学試験日だから。
全然受験生していない気がするがこれまでの貯金で頑張るしかない。
そして入試の翌日は星雲戦の7回戦と8回戦がある。もう6勝で最多勝ち上がりは確定しているから、決勝トーナメント進出も決まっている。でもわざと負けるなんてできないよね。まあコンディションが悪いから、普通に負けそうな気もする。そしてそれが終われば、なんとあの御厨先生と夕陽杯の準決勝だ。万が一に勝てば午後には決勝もある。組み合わせにかなり恵まれた結果だ。
そんなことを考えているうちに静香は3時間も寝てしまった。まあまだ持ち時間は2時間は残っているはず。そう思って控室を見渡すと当の対局相手が控室の離れたところに寝ていた。静香が戻って来るのを待ちきれなくなったのだろう。
静香は対局室に戻ると、持ち時間が3時間近く残っているのに気が付いた。つまりあれから相手が1時間以上長考していたことになる。静香は相手の手を確認し、それから30秒程考えて1手指すと、自分ももう一度に控室に寝に行こうかと考えた。だが大先輩の持ち時間は30分を切っている。
まさかとは思うが、このまま時間切れ勝ちになる可能性もある。本当に勝負に徹するならそれを狙うべきだけど、それも情けないと思う。これで盤面が不利であればもう少し静香も考えたかもしれないが十分優勢だ。
よし起こしにいくか。そう思って静香は再び控室に向かった。そう言えば今頃、「舞鶴千夜、グラマフ賞完全密着」の特別番組が放映されているはずだ。
素材はほぼリアルタイムで日本に送られていたはずだけど、千夜に同行していたディレクターたちは多分ビジネスジェットを降りてから寝させてもらえなかっただろうな、とかどうでもいいことを静香は考えた。
その日静香はC2リーグで9勝目を決め、残り1局を残してC1への昇級と五段への昇段を決めた。勝敗表を改めて見ると静香と今期対戦がない櫛木さんも全勝しているので昇段確定。残りの1人は来月の最終局で決まるはずだ。