78.新宿駅(2)
千夜は自分の疑問を正直に社長に訊ねた。
「まあ汚い話はあんまり聞かせたくないんだけど、CD賞の方はうちの事務所からは他の歌手を推してるんだよ。女優が本業のお前さんにはCD賞は、まあもらえれば嬉しいかな、って感じで別に必要じゃない。でもうちの事務所には、あそこで賞が貰えるかどうかがとても大切な奴らがうようよいるんだよ。まあ昔ほどの力はないけどそれでもだ」
たしかに千夜が何者かを一言で表す場合に、ミュージシャン、と形容する人は相当少ないと思う。
「そして歌勝負の方もだいたい同じ理由だな。どちらも今更だけど、お前さんが受験生だ、っていうのも一応考えてはいた。でも、海の向こうの人たちはそういう空気を読んでくれないからな」
うーん。
「それにしても、私の曲ってそんなに売れてましたか?」
「売れているわよ」
こちらは香織さんだ。
「聞かれてもないのに私から伝えるのはどうかしら、と思っていたけど、今は海外からのダウンロードの方が圧倒的に多いみたいね。さすがに日本語曲は少ないけれど、それを加味してもトータルでは国内より海外からのダウンロードのほうが倍以上多いわ。まあ英語版CDの流通量が少ないっていうのもあるとは思うけど」
「もう3倍を超えて4倍ぐらい、海外の方が多いです」
と明石さんが補足する。そ、そんなに? それは国内で売れてないってことじゃない?
「海外企業からのCMの依頼も増えている。とりあえず受験が終わってから始動しようと思っているけどな」
香織さん、明石さんに社長が続ける。
「で、グラマフに話を戻すけど、グラマフ賞は1月末。つまり受験直前だ。そして5部門にノミネートされているけど、そのうち3つはメジャータイトルだし、受賞できるかどうかは正直微妙だ。普通に考えたら無理だと思うけど、ノミネートされているメンバーを見ると、お前も含めて今年は不作で、抜きんでた存在がいない。だからもしかしたら受賞できるかもしれない。受賞者は偏りがちだから、ひとつ取れたらふたつみっつだって取れるかもしれない」
口は悪いけど、社長は受験や棋戦、他の仕事とのバランスを考えてくれているような気がする。
「いや売り上げだけ見ると、うちの千夜が群を抜いて一番でしょう?」
一方香織さんはいい機会だから行ってみたら、と考えているようだ。今後もショービジネスの世界で生きていくのであれば、アメリカはじめ他国の人脈があったほうがいいに決まっている。現時点での千夜の海外人脈は、曲や詩を提供してくれたアーティストたちと、畑違いだけど夏の映画で知り合った監督のアンリとアメリカ人男優のオリバーだけだ。
「だから微妙だ。売上がトップじゃなかったら可能性はほぼ0に近いと思う。とはいえグラマフも時々わけわかないことをするからな。そしてノミネートされたと言ってもセレモニーに参加する義務はない。実際のところメジャータイトルにノミネートされても参加しなかった奴はいるし、特に千夜も俺たちも日本に住んでいるしな。さてどうする?」
「行きます」
千夜は即答した。だがその後は戸惑いながら話し始めた。
「えっと、あの、できればなんですけど、小規模でもいいので渡米するついでに、現地でライブとかできないでしょうか?」
他の3人が千夜を見ている。
「いや、私って国内ですらろくにツアーをしていないじゃないですか。でもせっかくアメリカに行けるのだから、一度アメリカのお客様を体験しておきたいんですけど……どうでしょう?」
「わかった、気概は買う。沙菜、お前ひとりだと大変だから、香織のとこから人を出してくれるか?」
沙菜というのは明石さんの名前だ。明石沙菜。千夜のマネージャーなのに千夜は明石さんを下の名前で呼んだことが無い。
「とりあえず将棋関連と学校関連は沙菜に調整してもらうしかないな。受験日とかはちゃんと千夜から聞き出しておけよ。どこかの入試と重複したらもちろん、これから山場を迎える間合塾さんのCM撮影とかち合う可能性もある。そう、間合塾さんにも話を通さないといけないな。まず一旦俺から伝えておくけど、スケジュールでもなんでも何らかの変更が発生する場合は、俺からお客さんには話をするから報告しろ」
わかりましたと明石さんが答える。
「アメリカツアーはまあ、できて1か所、昼夜の2回だろうな。グラマフの開催場所はLAだから、ライブもLAでいいだろう。それにせっかくだからハリウッドとかも行きたいだろ? ただでさえ行き帰りに時間がかかるからな。万一どれかを受賞したら、その日に帰りますってわけにはいかないだろうしな。そのあたりは香織の方で調整してくれ。ところで千夜、ちなみにお前パスポート持ってるの?」
千夜が答えるよりも明石さんが答えてくれる。
「舞鶴さんは持ってないですね」
「じゃあそこから準備しないといけない。アメリカでライブをするんならアーチストビザが必要だけど、取れるかな? 普通なら厳しいんだけど、そのあたりはNARAS(グラマフ賞の主催者団体の略称)に相談すればなんとかしてくれるんじゃないかな。香織、そのあたりの交渉もできる奴を沙菜に付けてくれ」
「わかりました。沙菜ちゃんに即戦力を回します。そして当然千夜ちゃんがグラマフにノミネートされたこと自体が宣伝に使えるので、既存のスポンサー各社に営業かけていかないといけませんね。当然受賞した場合、しなかった場合の宣伝の準備もします。特に破魔矢さんには交渉次第でライブのスポンサーにもなって頂けるのではないかと思います。あと衣装も。セレモニーは和服の方が映えるんじゃないかしら? その代わりライブやそれ以外はルイッチさんで、とか調整したいですね」
香織さんがテキパキと答えているのを聞きながら、千夜は自分が軽く考えていたことだけど、それを実行に移すとなると、なんかすごいことになるのだなと思った。
その後は正式にノミネートが発表される明日に向けて、記者会見の準備や、そこで何を話すかなどの細かな打ち合わせが始まったので、千夜は帰りが遅くなることを自宅に連絡した。そして話が終わった後、千夜は事務所から南下して、甲州街道を使って鉄道を跨ぎ、小田急の新宿駅へと向かった。