77.新宿駅(1)
11月末。名人戦(正確にはその予選である順位戦)に並ぶ2大タイトルである竜帝戦の予選が始まった。持ち時間6時間の順位戦ほどではないが、こちらも持ち時間が5時間と長い。しかも順位戦はB2以下はチェスクロック式だが、竜帝戦は予選からストップウォッチ式。
チェスクロック式ならば相手が指してから30秒後に指せば30秒持ち時間を消費する。正確には指した後にチェスクロックを押したタイミングで時間を計測する。
しかしながらストップウォッチ式は棋戦によって多少の違いはあるが、1手につき1分未満は切り捨てられる。極端な話59秒で指した場合、時間の消費は0になる。つまりこれは、双方の指し方次第では、終わるのは順位戦より長くなるよね?
そして1回戦の相手は岸律子女流三段。先月、つまり10月までは女流玉将のタイトルを持っていたが、大沼女流三冠に奪取された。女流玉将と言えば現在予選トーナメントが行われているが、女王のタイトルを持つ静香は本戦シードされているので出場しなくていい。もっとそういう棋戦が増えればスケジュールが楽になるんだけど、今年度静香がシードされるのは女流玉将戦だけだ。
おっと、失敬。千夜のスポンサーでもあるプレーン女子オープンを失念しておりました。こちらはチャレンジマッチを含めると、千夜が番勝負を制したころにもうチャレンジマッチが始まっている。女子オープンについては静香はスーパーシードでいきなりタイトルマッチだ。
そしてこの岸女流三段からタイトルを奪った大沼女流三冠の勢いはものすごく、今月、所沢秋桜のタイトルをも今泉さんから奪取し、今静香が挑戦している女流王者と合わせて、今泉さんと女流三冠で並んだ。このふたりで女流八冠のうち六冠を分け合い、女子オープン女王を静香が、女流名人を岩城先生が持っている。
なぜ女流王者の番勝負の方が10月から始まっているのに、11月から始まってフルセットまでもつれ込んだ秋桜戦の方が早く終わっているのかを不思議に思うかもしれない。女流王者が五番勝負であり、所沢秋桜が三番勝負というのもあるが、女流王者の番勝負の間隔が長いからだ。10月、11月は1局ずつしかなく、もし最終の第五局までもつれれば12月に3局あるので年末までなだれ込んでしまう。
一方岩城女流名人の挑戦権を賭けたトーナメントも最終盤を迎え、ふたりの女流三冠と、静香に女王のタイトルを奪取された向田女流四段、そして今静香の目の前にいる岸女流三段の4人まで挑戦者候補が絞られている。
女流棋士は一般に収入が低いので、ある意味普通の棋士以上に勝負に貪欲な所がある。今日の岸女流三段も静香を研究していたようで、時間をわざとゆっくり使うという焦らし戦法をしてきた。そのため、静香の脳内受験勉強が随分と捗った。
竜帝戦で女性同士の対局というのは初ということで注目を浴び、ネットでも中継された。静香は無事に勝って2回戦に進んだ。静香はほぼ時間を使わなかったが、それでももう11月末ということもあり陽が落ちている。家に直帰しようとしたが、スマホの電源を入れると「棋戦が終わったら事務所の社長室に寄って欲しい」という明石さんからのメッセージが届いていた。社長室? 取り急ぎそれに返事をした後、静香は千駄ヶ谷から黄色い電車に乗って新宿で降りて小田急と反対の東口に向かった。
それにしても社長室に呼び出されるっていうのはどういうことだろう? 特に不祥事をやらかした覚えもない。
例えば千夜は事務所にスカウトされてからしばらくの間、事務所から自宅に帰る時、新宿駅の構内を通っていた。静香は小田急沿線の自宅から千駄ヶ谷までの通学定期を持っている。定期券を使って地下の新宿駅中央東改札から入って、新宿駅構内を抜け、西口の小田急中央地下連絡口から小田急新宿駅に抜けて小田急に乗って帰っていた。だが、それはルールに反していることを事務所に教わってからは、律儀に遠回りして2階に昇り、甲州街道沿いを歩いて小田急に向かっている。
つまり電車に乗らないのに、駅の改札を通るには本来入場券が必要。仮に駅構内のショップで買い物をする場合でも、電車に乗る前後であればよいが、そのまま同じ駅を出るには定期券ではダメで本来入場券が必要だ。実際にやってみると普通に通り抜けられるので、そんなことをしている人はほぼいないだろう。いったいどれくらいの人がこのルールに律儀に従っているのかはわからないが、こういう現状に合わない利用者に不便を強要するルールは改定して欲しいものだと、千夜は思う。
さて愚痴はともかく、千夜が事務所に着くと、入口まで明石さんが出迎えてくれていた。そして案内されるままに社長室に着くと、そこには当然鎌田社長と久しぶりに鎌プロの営業部長の香織さんがいた。千夜をこの世界に引き込んだ、張本人である二本松香織さんだ。
おお、社長もそうだけど、香織さんに会うのも随分久しぶりな気がする。千夜はそんな内心を押さえてふたりに、ご無沙汰しておりますと丁寧にあいさつをした。
明石さん含め3人とも表情を見た所怒っている様子はないので悪い話ではないはずだ。千夜は少し安心した。
「明石さんに呼ばれてこちらに参りましたが、なにかございましたか?」
そう言うと、身内なんだからもっとフランクにしろと社長に軽く怒られた。この事務所、いつも礼儀にはやかましいじゃないの。
「えっと、俺から言うか。端的に言うとグラマフ賞にお前がノミネートされたという内定通知があった。具体的に言うと、『最優秀レコード賞』、『最優秀アルバム賞』、『最優秀新人賞』、『最優秀ポップ・ソロ・パフォーマンス賞』、『最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバム賞』の5部門だな」
千夜もこの業界に身を置いているのでグラマフ賞って何ですか? と聞くほどとぼけてはいない。アメリカ中心とは言え、世界でも最高の音楽賞だというのを理解している。しかし千夜は『日本CD賞』にもノミネートされていないし、大晦日の名物番組でもある『日本歌勝負』にも呼ばれていない。そんな私がなぜ? という気持ちが心の中で渦巻く。
千夜はそれを正直に社長に訊ねた。