72.海老沢直樹の憂鬱(5)
「時間になりましたので始めてください」
挨拶の後相手は飛車先の歩を上げた。天道四段は居飛車の方が若干多いオールラウンダー。振り飛車の可能性を残すためか、普段は角道から開けてくることが多い。直樹もノータイムで飛車先を突く。流石の天道四段も直樹に対しては、指し方を変えて来るのかもしれない。互いに飛車先の歩をふたつ進めた後の5手目に角道を開けて来たので、直樹は3二金と上がる。これはオーソドックスな角換わりか。直樹としては理想的な序盤だ。10手目の7七角成で角交換。その後はお互いに角を持ったまま手を進めていく。
そして直樹は自分の研究を惜しげもなくつぎ込んでいく。ここの手順をこう変えれば、囲いが遅くなるが一歩得をする。こちらの金を先に上げておけば後で一手早く桂馬を跳ねることができる。直樹は少しずつ、ほんの少しずつ自分を有利にしていく。本来ならばこれらの手はできれば順位戦(A級)のために取って置きたかった。
しかし、当たり前の話だが研究はほぼ全員の棋士がやっていることだ。やっていない棋士もいるけれど、それはもう終わった棋士だと直樹は思っている。だから自分が見つけた小さな工夫を他人がいつまでも気が付かないとは思わない方が良い。だから今日のように、絶対に勝たなければいけない一局に対して、それを惜しんでいると、他の棋士が使ってしまう可能性は十分にある。
それにしてもこの子、俺が考えた研究手にもすぐに対応してくるな。そして駒台にある角を全然使わへん。これまでの棋譜を見る限りでは、手に入れた駒は早めに打ち込むタイプだと思っていたが、今日はそうでもないらしい。あーもう嫌になんな。今までも相手に合わせた指し方をしてたみたいやけど、さらに上のギアがあるんかい。
おそらくこの王偉戦の予選の2回戦において、もっとも時間と努力を積み重ねた棋士は直樹だろう。そしてもっとも必死なのも直樹だろう。そしてこの子にとってはただの予選の2回戦。多忙な日々を過ごしているから直樹の棋譜すら見ていない可能性もある。事前準備もなしにここまで抗っているのだとすると、直樹にも見せていない、より上のギアを持っているかもしれない。
それでもいい。とりあえず今日、俺が勝つことが最優先だ。
直樹は自陣全体を上げ、一方飛車は一段下げて、地下鉄飛車ができる状態にしている。つまり8一に飛車を下げ、それ以外の駒は2段目以上に上げて行き、場合によっては直樹から見て左辺に飛車を振れる状態にしている。
一方先手側も似たような形。どちらかというと金駒を横に並べた直樹と割と縦に並べた先手というところが違いか。
駒台にあった角を使ったのは直樹の方が先だ。68手目に6六角打で王手をかけた。先手は7七に角を打って来たのでまた角交換、ここからが考えどころだ。
持ち時間は少しずつ差が開いていくがこれは計算のうちだ。4時間あるのだからそれに相応しい使い方をするべきだ。終局時の残時間で勝負が決まるわけではない。実際天道四段も、今日はこれまでの対局と比べて時間の使い方が随分と違う。直樹ほどではないがこれまでの対戦と比べると相当一手一手に時間を使っている。
一手一手と補足したのは、この女、順位戦だと途中で昼寝するのが普通になってきたからだ。9月の順位戦では持ち時間6時間のうち4時間を寝て過ごしたので、さすがに秒読みまでいったと聞いている。
やっぱり相手に応じて指し方を変えているのは間違いない。これを引き出せただけでも今日は収穫と思うべきかもしれないが、今日、直樹は絶対に勝たなければならないのだ。
終わった棋士を除けば、プロ同士の対局で一方的な展開などできるわけがない。序盤で先ほどの研究のように、少しでも有利な駒交換をする。あるいは無駄な一手を省き、自玉を安全にするのが大切だ。
そして中盤になれば、多少の駒損をしても、こちらの攻めが続くのであれば問題ない。あるいは相手の金駒を王から引き離すなどの、相手の駒の連携を壊せるのであれば問題ない。
盤面は少しずつ直樹に有利になっているが、逆に言うと少しずつしか有利にできない。ホンマ間違えよらんな。一手でも間違えてくれたらだいぶ楽になんのにな。本当にこの子が女優になるよりも前に四段になってくれたらよかったのに、と直樹は思う。それだったらここまで直樹が必死になる必要も無かったのに。
そう思いながらも盤面は直樹の思惑どおりにどんどん複雑になっていく。そしてようやく苦心の末に作り上げた直樹の仕掛けが完成した。94手目8五飛から同歩、同歩、同桂、同香、同銀、同銀、同馬、同角、と一気に手が進んだ。この一連の駒の塊の解消で、直樹は歩、香、銀、飛を犠牲にし、その代わり、歩、桂、銀、角を得て、かつ最後の角で王手をかけて手番を持って来た。直樹から見て右辺が一気に片付き、互いの駒台が若干混雑する。交換的には少し不利かもしれないが、形としては良い形ができている。これでだいぶ勝ち目が見えてきた。
そして最後に必要なのは速度計算。あと何手で相手の王を殺せるのか、それを相手より少しでも短くすれば勝ちだ。直樹は冷静に計算し、自分の方が相手玉を刺すまでの手順が短いことを確認し続ける。
そして124手で必至がかかったところで、天道四段が投了した。
よし、俺はなんとか将棋を守り切った。直樹は初めてA級に上がった時や、鋭王のタイトルを取った時と同じぐらいの深い満足を得た。そしてインタビューを受ける。
「そうですね。まだ予選の2回戦なので、まだまだ先は長いです」
直樹は自然な感じでそれを言い切ることができた。これも妻の冷たい目を浴びながら一人芝居をした成果だ。そして敗者のコメントを聞く。
「序盤から少しずつ悪くなってしまって、中盤、終盤と立て直すことができませんでした。もちろん勝つ気で挑みましたけど、終わってみるとあまりにも高い壁で、手合い違いと言われても仕方がなかったと思います」
この子はまったく練習なんてしとらんのやろうな。それでこの強さは恐ろしい。とりあえず七海ですら女流はそれこそ手合い違いだろうと思った。そう遠くないうちに俺のすぐそばまで来るに違いない。
その後直樹は、珍しく棋士室にも顔を出さずに帰った。本来なら人を集めて祝杯をあげたいところだが、普通の価値観で考えればしょせんは予選の2回戦だ。持ち時間4時間の棋戦でかつ互いに時間を余らせたにも関わらず、思った以上に疲れたのでそのまま帰ることにした。まだ夕方の4時前なので座って帰れるかもしれない。直樹は妻と保育園にメールを送った。珍しく妻から返事がすぐに来た。
曰く、あなたのおかげで、上司にも部下にも散々文句を言われたわ。
直樹は苦笑しながら、福島の駅に向かい、帰りの電車は座って帰った。地元の駅の駐輪場から自転車を使って、保育園に息子を迎えに行く。
「海老沢さんって将棋打ちだったんですね」と久しぶりに園児の保護者に言われた。だが、その口調には好意的なものは一切感じない、冷たいものだった。
息子までこうだ。
「パパがかったってテレビの下にもじが出てきたの。みんなもせんせいも、えーって言って、泣いてる女の子もいた」
直樹は自転車を押しながら家まで息子と一緒に歩いた。そりゃあ今日の対局では、俺は完全に悪役だよな。
「でもね、ぼくはすごくうれしかったよ」
その言葉だけで、直樹は報われた気がする。そして次に彼女と対局する時も勝たないといけないな、と思った。
その後帰宅した後、夕ご飯を用意して息子と一緒に食べ終えた後に、妻が珍しくケーキを買って帰って来た。
「ただの予選の2回戦。大げさだよ」
直樹がそう言うと、テレビで見たのも、いま生で見せてもらったのも、一人芝居の成果があってとても自然で良かったわ、との言葉を妻から頂戴した。